あれからの桃太郎

 一年前に鬼ヶ島から帰ってきた時、猿はこう思った。今おれの隣でチヤホヤされてサインを求められるこの男は決して英雄ではない、と。確かにジャニーズ並みにイケメンかもしれないが、正体はとんでもない残酷な嘘つきなのだと皆じきに知るだろう、と。だからそれまでの間、おれはこいつの綺麗な仮面が剥がれ落ちるのをウキウキ楽しみにして過ごそう、と。

 英雄の凱旋を祝して港から宴会場までハイビスカスを飾り立てた、あの祝勝会が盛り上がる最中、猿ただ一匹がほとんど嫉妬で構成された悪意をぶくぶく膨らませていた。いずれその時が来たら、自分こそがこの酔った群衆共に真実を突きつけてやると息巻いていた彼の姿は、傍目から見ればただ純粋に飲み会を楽しむ猿に過ぎなかったに違いない。けれども、その胸中ではどす黒い怨嗟の声が渦巻いていたことをこのときはまだ誰も知る由もなかった。が、その真っ黒な悪意の結末も猿はこのとき知る由もなかったのだが、それはまた後の話である。

 さて、あの鬼ヶ島の戦いから一年が経った。

 ジジジッ…。

 ジジジッ…。

 ジジジジジジッジジ…ピ…。

 今日も容赦なく鳴る目覚ましを叩いて止めて、起き上がってからカーテンを開けたときには休日だったと気がついた。そしてほっとして寝間着のままベランダに出てみると、やはり先週同様に今日も広場には人だかりができているのが見えた。あれから一年経ったというのに、まだ熱は冷めないのかと目をこすりながら呆れていたら、外からお馴染みの言葉が聞こえてきた。

「桃太郎様ー!♡」

「え!どこ、あ!!!桃太郎様ー!」

「9時15分、今日も時間通りいらっしゃったわ!…どきなさいよ!ここ、わたしが先に陣取ったんだから、ああもう!桃様ー!」

「桃太郎様!こっちを向いてー!♡」

 奴が群衆の方を向くと、ますます黄色い声が鋭くなった。

「きゃーーーー!!!♡♡」

 英雄が登場してもしばらく広場の興奮ぶりが収まらない様子を見て、猿は舌打ちしてから薄暗い部屋に戻った。せめてタバコでも持って朝の空気を吸うべきだったなと思った。せっかくの休日の朝だっていうのに、これじゃあ全然リフレッシュも出来たものじゃない。なにが桃太郎様だ、クソ…。

 そう、あれから一年、鬼の脅威が消えて晴れた島には平和が訪れていた。鳩も喧嘩ひとつしない平和すぎるほどの平和である。

 ご存知の通り、かつては鬼ヶ島の存在が島の経済成長を妨げており、島はそれこそ桃太郎が凱旋するまでは総力戦体制の状態にあった。つまり、島のありとあらゆる人的リソース、物的リソース、情報リソース、カネがすべて鬼ヶ島制圧に費やされていたのである。

 しかし、英雄の出現により瞬く間に鬼ヶ島を制圧すると、それまで戦争で屈み込んでいた島の経済はバネが伸びるように跳躍した。隣国日本の明治維新や高度経済成長をしのぐほどの急速な成長を遂げ、いまや島の産業の5割は貿易業、3割は情報産業、そして残り2割は観光業となっていたのである。すなわち、島はたった一年足らずで絶望的貧困社会からサービス業中心の社会に変貌してしまったのだ。

 当然ながら、社会の変化はかつての鬼ヶ島討伐隊のメンバーにも影響を与えた。まず、キジ。一年前の祝勝会ではハメを外し、大の字に寝転がって大声でバラードを歌いあげるという失態を犯したキジだが、あれから一年、彼はその持ち前の陽気さのおかげもあってか、島の観光大使となっていた。桃太郎ほどではないにせよ、彼をテレビで見ない日はほとんど無いと言ってもよく、島の外から来た人が彼を見かけると、まず一緒に写真を撮っても良いかお願いしていた。しかも、この手の明るい人にありがちな、人を見下す底意地の悪い態度は微塵もなく、彼は善良な市民そのものであった。後に政治家として活動してほしいと頼む年配の支持者も多い。住まいは島の一等地のタワーマンションの15階で、年収は1500万ルピー。

 その一方で、いかにも冴えない暗いライフを過ごしているのが、間違いなく猿だろう。趣味はネット掲示板にうらみつらみを書き続ける(もちろん自覚なし)くらいしかない、英雄の汚い腰巾着と呼ばれるこの男は、今はITエンジニアとして島の情報産業に貢献している。いま貢献と言ったが、それはあながち盛った訳ではない。なぜなら、ITエンジニアといっても、彼はこのピラミッド型情報産業の最下層に位置する、多重下請け最底辺のエンジニアであり、深夜だろうが休日だろうが残業の概念が消えるほど身を粉にして働く、DXプロジェクトの火消し役だからだ(見なし残業)。朝令暮改とでも言うべきほど雪崩れてくる仕様変更を全て受け止め、一日にトイレに行く回数よりも多い障害に対応し、そのうえ社内の片隅で暇こいているソリティアおじさんに晩酌を付き合わされる日々(割り勘)。住まいは集合住宅の1Kで、年収は250万ルピー(年間休日75日)。

 猿の落ちぶれ方に比べれば、イヌのあれから一年はまだマシな方だろう。とはいえ実のところ、このイヌに関しては特に何も言うべきことはない。確かなのはフリーターである、という点くらいで、どこに住んでいるかも収入がどれくらいかも不明なのだ。そもそもこのイヌだが、島民のうち喋った者が討伐隊を除いて全くいないらしい。正確にはコミュニケーションが取れた試しがない。イヌは「ワン」の二文字を組み合わせてしか情報を伝達できない効率的な動物なのだが、愚かな他の動物たちは彼の言うことが全く理解できず、彼もやがてその二文字すら言わなくなった。先ほどフリーターなのは確実といったが、それは奴がたとえ読み書きができても、口で情報伝達出来ない限りではこの資本主義社会が発達した島において働き口がないと勝手に推測したためである。住まいは不明で、年収も不明。

 最後に、周知の通り紹介はほとんど不要と思われるが、いちおう我らが英雄の輝かしい軌跡も振り返ろう。名前を桃太郎。身長は187cm、噂では愛人が複数名。島の歴史上、千年に一人生まれるか生まれないかの美男子で、その艷やかな白い肌と透き通ったサラサラした髪を見れば、たとえどれだけ男嫌いであっても島の全女性が振り向かずにはいられない男、桃太郎。パリッとした襟の陣羽織に、チャーミングなネイビーブルーのパンツスーツというスタイル。この、いわゆる桃太郎スタイルは、言うまでもなく桃太郎にしか許されておらず、真似をしようものなら島に潜む「桃太郎ガールズ」に写真を撮られてSNSにアップされ、そして炎上待ったなしである。平日の仕事は商社マンで、休日は時々モデルとして活躍。島の全CMに桃太郎が出てきても、誰も反対しないのではないかというのが懸念と呼べる懸念である。住まいは海が見渡せる別荘、年収は3000万ルピー。

 かくいう筆者、このわたくし鬼木鬼蔵も半年前に日本からこの島に取材目的で滞在するようになってからは、この四人の数奇な運命を実に興味深く追いかけるようになった。というのも、一年前は皆ひとつ同じ船に乗り、並んで山を越え、ときには叱り合い、ときには励ましあった戦友たちなのに、その後の一年がこうもかけ離れていると、人生とは随分不思議なものだと感慨深くなってしまうのだ。一人は栄華を極め、一人は誰もが羨む明るい日々を送り、一人は行方不明になり、一人は人(いや、猿)生のどん底にいる。私については、人生にまあまあ満足している一人の記者兼編集者である。それ以外特に言うべきこともない。実際、このユニークな動物たちの記述をするにあたって、私の紹介は最低限に済ませるべきだろう。あまり出しゃばるべきではないのだ。

 さて、どん底の男にとって貴重な休日がやってきたこの日、彼は疲労のあまり忘れているかもしれないが、あの鬼ヶ島遠征から実はちょうど1年が経っていたのである。これを機に、私も本業の仕事を進めるべく、今日この日にかつての戦友4人を集めたインタビューを行おうと企画していた。もちろん、キジと桃太郎のスケジュールを調整するのは大変だったが、やはり思い入れの深い遠征だったのは間違いないらしく、桃太郎は先着の依頼を断ってまで来ると返事してくれた。猿には職場にお邪魔して案内状を手渡し、行方不明のイヌには役所に可能であればこれを渡してほしいと告げた。来ても来なくても変わらないかもしれないが、体裁を整えるためにもやはり4人いたほうが良い。

 待ち合わせ場所は、祝勝パーティーを行った広場の向かいの貸し切り宴会場。粋なことに去年同様にハイビスカスが飾り並べられている。そうこうしているうちに、パーティ会場の前でうろうろ様子を観察しながら、そわそわ緊張してくると電話が鳴った。猿からだった。

「よう鬼木さん」猿はいつになくしゃがれ声だ。

「これはこれはお猿さん、いつもお世話になっております。鬼木です。いったいどうかされました?」

「あのさあ、今日って確かさ、あれだよな、あれ」

「ええ、と、言いますと…」

「あれ、(ハァ…)あれだよ、おれら四人集まるんだっけ?」ちょっとイライラ気味に彼は語尾を上げて言った。ため息から察するに、露骨に行きたくなさそうだ。

「はい、皆様に先日お渡しした案内状の通り、宴会場でお待ちしております」

「…」

「どうかされました?」

「…あれ、何すんだっけ、今日。おれら集まって何すんの」

「皆様に、今から振り返ってこそ見えてくる、去年の鬼ヶ島遠征について語っていただこうと…」少し意外で慌てた私はなんとか言葉を継いだ。「それに別にお仕事関係なくあの英雄たちが久しぶりに盃を交わす様子には非常に期待が高まっておりまして…」

「チッ、どうせ…」

「どうかされました?」さっきと同じ調子で私は尋ねた。

「どうせ…期待って言ったって、桃太郎への期待100%だろ、いや99%で残り1%はキジか。おれさあ、あんときは頭が長時間労働で溶けてたから行くって言ったけど、ねえ、今日やっぱ行かないとダメっすかね?」

「席もご用意しておりますし…」

「いやそれだけならさぁ」猿はまたため息をついた。「別になぁ」

「それに、あの遠征についてまだ語られてないこともあるかと思いまして」

「いや、それはもうあの英雄様がたっぷり語ってくれたじゃないですか。みーんな、蝿みたいにあいつに群がってマイク向けてパシャパシャしちゃってさ、おれなんてマジで一回もインタビューされてないんすけどさぁ」

「そうでしたか…ですから、今回は良い機会だと思っているのです。ほら、私はこの島の人ではありませんし、職業柄、いろんな人の意見を公平に聞くのはいささか得意だと自負しております。今日は…」と、そこまで言ったところで猿が受話器を耳から離して嫌そうな顔をしているのが想像できた。「…今日は誰かの言葉を優先して他をないがしろにすることはございません」

「いやもう聞き飽きたんよ、それ、ハァ、もうちょっと察してくださいよ…」

「でも私は…!」と、ここまで来たところで電話が切れた。

 腕時計を見た。まだ開始の時間まで5時間ある。猿の自宅は一応知っているので、しばらくして電話をかけて、もし繋がらなかったら、彼の家を訪ねるのも最後の手段として可能性はあるかもな、と思った。が、実際に想像してみると、そこまでしてモチベーションの低い猿を引っ張り出すのは彼に悪い気がした。今日くらいはせめて休ませてもあげるべきだと私の良心が訴えていた。それにキジのことも、桃太郎のことも、イヌのこともある。とりあえず下手に動かず私はここで待機しているのが良さそうだという結論に至り、いったん宴会場の近くの蕎麦屋に入った。

 

 

 16時50分、約束の10分前になると、驚いたことに猿が宴会場に姿を現した。グレーのしわしわジャケットを着て、タバコを齧ったままポケットに手を突っ込んでいる。まるで西部劇に出てくるベテラン刑事のような雰囲気だ。

 既に座敷の奥にはキジ、桃太郎、そしてなぜか桃太郎のお爺さんとお婆さんも来ていた。どうやらキジは桃太郎の祖父母と面識があったらしく、猿が異様な雰囲気で来る前は軽い雑談で場も和やかに盛り上がっていた。久しぶりに見た桃太郎も、美の極致のような顔で笑うのだから、男の私もついついまるで美術品を見るように目線がいってしまうのであった。

 猿が現れたのは、まさにそんな「しばしのご歓談」の時間だった。とはいえ、キジも猿の登場には純粋に喜んでいそうで、腹黒い笑顔にあるような翳りがどこにもなかった。いつ見ても快晴の空のように笑うキジにはとても好感が持てた。

「猿!久しぶりじゃないか!元気にしてた?」

「…」猿が靴を脱いで座敷に上がってくる。

「ほら、さあさあ座って座って…何から飲む? って鬼木さん、まだ始めちゃマズイんでしたっけ!」と高らかに笑うキジ。

「いえいえ、リラックスしてお話いただきたいので、もう皆さんのタイミングにお任せいたしますよ」

「じゃあ、飲みますか! 桃太郎、どれにする?」

「僕はジントニックで」爽やかな声だ。

「猿は?」

「……おれは生でいい」

「オッケー!すみません、生2つと、ジントニック1つ、あ、鬼木さんどうします?」

「私も生ビールでお願いします」

「やっぱ生3つで、あと日本酒、はい、はい、お願いしまーす!」と、歯切れよく言い、キジがドリンクメニューを元の場所に置いた。

「…おまえ、相変わらず元気だな」猿がキジの顔を見て言った。電話した時よりもドスの利いた声だった。が、別に睨んでいるわけでもなさそうだった。

「あはは!いやーそんなことないよ!今日は元気ってだけ!うん、だって皆一年ぶりにこうして集まれたんだからさ!」

「チッ、全く」

「猿はー、まあ変わったと言えば変わったように見えるし…でも変わってないようにも…」キジがぱっちり目を開けて、猿をじろじろ見た。「どう思う、桃太郎?」

「猿、久しぶり」桃太郎は言葉の一つ一つがスッキリしている。

「あはは!やっぱ桃太郎は桃太郎だ!」

「チッ」

 生ビールが3つ来た。汚いものにでも触れるように猿がすっと手をのばして自分のグラスを素早く取って寄せた。それを見たキジがまた笑った。

「チッ!」

 そして、ジントニックと日本酒が2合2杯で来たので、キジが即興で見事な挨拶をして乾杯した。猿は俯いたままグラスを握って乾杯に参加しなかったが、キジや祖父母、それに私が猿のグラスに優しくグラスをぶつけると、顔を上げた。いかにも不快な表情だった。

「いやあ、ホント懐かしいねぇ!」

「そうじゃなぁ、そうじゃなぁ!」お爺さんがキジの隣で盛り上がっている。「ほんと、太郎を鬼ヶ島に送ったのが昨日のことのようじゃい!」

「お爺さん、あのときは桃太郎にほーんとお世話になりました!」

「いやいや、こちらこそじゃよ!うちの太郎がねぇ!皆さんのおかげじゃ、なあクミコ!」

「あんた、その名前で呼ぶのは恥ずかしいんだっちゃ!」お婆さんことクミコさんが照れながらお爺さんの背中を叩いた。「みんな本当にいい子じゃったわなぁ、わたしの作ったきび団子も美味しそうに食べてたって太郎が言ってましたんに!」

「あれはもう絶品ですよ!」キジが叫んだ。

「あらもうホント良い子ねぇ!今日も作って持ってくればよかったわぁ」

「…チッ、何が…」猿がぼそっと言った。が、皆会話に夢中で聞いてなかった。

「ねえ、太郎さん、あなたも黙ってないで今日くらいゆるんだらどーう?」

 桃太郎がジントニックから口を離した。所作の一つ一つが無駄なく美しい。

「おばあさん」桃太郎がクミコさんの方を向いて言った。「あれは本当に美味しかったですよ」

「きゃーーー!♡」

「ばあさん!まだ春の名残があったんかい!わしゃ、わしゃ嬉しいぞ!」

「だって、太郎さんが、太郎さんが…きゃー!♡」

「カーハッハッハ!!」お爺さんも元気そうで何よりである。

「いんやあ〜、良いご夫婦ですなぁ」キジが満面の笑みで二人を見た。もう笑顔いっぱいだ。

「もうねぇ、この人ったら、ジロさん、もう若い頃なんてもっとすごかったのよ!」

「ばあさん!よさんか!」そう言うと、ジロさんことお爺さんは笑い転げてしまった。そしてなんと、クミコさんもジロさんにくっつくように笑い転がり、じゃれあう二人の世界ができつつあった。が、桃太郎は桃太郎のペースを保っており、キジは二人の世界に合いの手を入れており、猿は猿で相変わらず沈黙してちびちびビールを飲んでいた。

 想像以上に盛り上がっているし、まだ時間はたっぷりあるので、これはこれで予定とは違うけど良いか、と私はニコニコと様子を見守っていたが、ジロさんが笑いすぎてひいひい言いながらトイレに行き、帰ってきたところでなんとなく空気の温まり具合がちょうど良さそうに感じられたので、一声かけてみた。

「さて、みなさん、本当に今日は盛り上がっているところ失礼いたしますが…」

「し、し、失礼だなんて、鬼木さんお酒もっとお飲みなさいっちゃ!」クミコさんは変なスイッチが入ったようだ。すかさずキジがもう一杯頼んだ。

「いえいえ、とんでもございません、ありがとうございます。それで、今日はですね、あの伝説の鬼ヶ島遠征からちょうど一年、ということでですね、今だからこそ振り返って見えるものを語っていただきたいと思うのですが、どうでしょう」と、私はちょっと早く切り出しすぎたかと思ったが続けた。「キジさん、一年前のあの時を振り返っていかがでしょうか?」

「ヒュー!ヒュー!」愉快な祖父母が囃し立てる。

「アハハ!まず僕からか、そうだねぇ」キジはまるで遠い過去に思いを馳せるように目線を少し上に向けた。「懐かしいよ、本当に。全てが懐かしくて一つ一つの、あのときの光景が今でも鮮明に思い浮かぶくらいさ。そうだなぁ、ボクはね、鬼ヶ島を見つけた時のあの興奮が今でもくっきり再現できるね。この話聞いたことあるかい、鬼木さん?」

「いえ、ないです」ちょうど頼んでいたビールが鬼木のところに来た。

「アハ!そうですか、いやぁ、ボクたちさ、知ってると思うけど船で鬼ヶ島向かったんだけどね、途中まで島らしきもの何も見えなかったんだよ。正直もうダメかなって思ったときもあったんだ。イヌとかすんごくワンワン鳴いててね。このまま海の上で終わりかって思ったんだけど、そのとき桃太郎の様子を見たら、なにか祈っているようでね、ボクはそれ見て確信したんだ。この人がいま恐れていないなら絶対にボクらは鬼ヶ島に行けるって。神に愛された桃太郎が祈ってるなら大丈夫だって。で、信じたとおりね、遠い空に黒い雲が見えたときに、桃太郎が目を開けると、その雲が晴れたんだ。で、ボクが一足先に飛んで様子を見に行くと、そこが鬼ヶ島だったわけ…! あれがボクは一番感動したなぁってごめんごめん、喋り過ぎかな?」

「いえいえ、多ければ多いほど助かります。」私は皆を見て言った。「というのも、今回の取材内容はですね、『桃太郎』という本にして一冊まとめようかと思っておりますので…まだタイトルは仮ですが…」

「鬼木さん、それホントだっちゃ?!」

「はい、クミコさん。もしよければクミコさんとジロさんのお話もお聞きしたいです…!」

「きゃー!どうしましょ!どうしましょ!ジロさん!」

「カーハッハッハ!そうじゃなぁ、わしらが話せるのは、まあこの島のもんなら、みーんな知ってる桃太郎の生い立ちじゃ。鬼木さん、桃太郎がどんなふうに生まれたかご存知ですか?」

「い、いえ…」私は質問がちょっと変なので答えに窮した。

「それは語りがいがあるってもんじゃい!実はな、ここにおわす桃太郎、なんと(クミコさんもここで一緒に声を合わせた)川から流れてきた桃からパックリ出てきて生まれたんじゃよ(だっちゃ)!」

「え!ええ!それ、本当ですか!」

「本当ですよ、鬼木さん」桃太郎が無機質な声で鋭く言った。「僕は桃から生まれたんです。」

「し、信じられないです…」

「チッ!!」

 聞くところによると、お爺さんが山に芝刈りに、お婆さんが川で洗濯しに出かけたあの文明なき16年前の島に、輝く桃が川を滑って流れてきたらしいのである。そして、その桃を家に持ち帰ってしばらく眺めていると、突然パックリ割れて桃太郎が出てきた、とのことだった。

 鬼木には全く信じられないおとぎ話の世界だった。

「あ、ありがとうございます。それも、『桃太郎』にぜひ書きます。いや、それは絶対に書かせていただきたいネタです!」

「そうじゃろ、そうじゃろ!」

「ボクもそれ聞いた時、びっくりしたんだよ!」

「わんわん!!わん!わわんわん!」

「なんだ!」全員がこの鳴き声のする方に一斉に振り向いた。なんと、そこには二足歩行のイヌがいつの間にか座敷に上がってきていた。「い、いったいいつの間に!」

「わわん!わん!」

「イヌ、今までどこにいたんだよ!ホントに心配したんだよ!!」キジが感動の再会とでも言うべきセリフを涙ぐんで言い、イヌを抱きしめた。祖父母もあまりのことに感極まっていた。

「わん!わん!」

「どうしたんだい、イヌ? え? わかった」涙で顔が腫れたキジが鬼木の方を見た。「鬼木さん、イヌも語りたいことがあるそうです」

「けれども…」

「大丈夫です。ボクが同時通訳しますから。あ、桃太郎、笑ってるね。君もわかるんだから、ちょっとは手伝ってよ、アハハ!」

「わん!」

「ええと…」

「わん!わんわわん、わんわんわ!わんわんわんわんわわん!わん!わん!わ!わんわんわん!わんわんんわ!わん!わんわんわん!わわん!わん!わんわん!…わんわわんわわんわんわ!わん!」

 キジが同時通訳してくれた。

「以上のようです、鬼木さん」

「ありがとうございます。きび団子、そんなに美味しかったんですね…!これも書かせてください!」

「うれしいわぁ!イヌさん!ほうらお膝においで!」クミコさんが膝をぽんぽん叩いてイヌを呼び寄せた。それを見たジロさんが笑い、さらに日本酒を5合追加で頼んだ。

「みなさん、そういえばまだ食事を頼んでなかったですね。あの、ぜひご自由にお好きなタイミングで注文していただいて結構ですよ」

「あらぁ」おばあさんの、やたら色気のある声だった。「いいのぉ?じゃあ遠慮なく頼むだっちゃよ!」

「猿、なんか食べたいのある?」キジがこれまで蚊帳の外だった猿に声をかけた。

「…」

「ねえ、見てこのお店!きび団子あるじゃない!ほら!」おばあさんがジロさんにぐいぐいと寄ってメニューを見せた。イヌが膝から離れた。

「鬼ヶ島討伐記念きび団子ですって!頼んじゃいましょ、これも!」

「ようし、今日は景気が最高じゃ!」

「わん…」ふとイヌがそう言ったとき、桃太郎の顔が一瞬だけ、ほんの一瞬だけ歪んだように見えた。

「で、猿は何食べる?」

「…茶番はもういいだろ」

「え?」

「だから、もう茶番はいいだろ!!てめえらみんな嘘ばっかつきやがって!!」

「ど、どうしたの猿?え?」キジがあからさまに慌てた様子だった。一瞬にして、これまでヒートアップしていた空気が氷点下まで落ちて凍りついた。

「鬼木さんよぉ」猿が言った。「あんた、ホントにさっきの桃から生まれた話を信じてるのか?」

「え、ええ、もちろん、だって皆さんそう仰るのですから…」

「あんた、記者のくせに常識ってのがねえのかよ!んなわけあるか!」

「え、え、ええと…」鬼木は祖父母の方を見た。すると二人共、きちんと正座して、これまでの笑顔をすべて燃やし尽くすような地獄の形相をしていた。まるで運慶と快慶のようである。

「なんでおれがここに来たか、わかるか鬼木さん?」猿がビールのグラスを握りながら言った。その手はかすかに震えていた。

「それは…」

「あんたが公平かどうか、賭けてみたくなったんだ」

「さ、猿、もうやめよう、ね…」

「黙ってろ!この太鼓持ちのキジ!」

「ボ、ボクはどうなっても知らないからね…」

「いいさ、別にもうクソくらえだ…!」猿が鬼木を見た。「なぁ鬼木さん、あんたどうやって子どもが生まれるかわかるか?いや、これは聞く相手を間違えたか。おい、英雄桃太郎さんよぉ、おめえ、いったいどうやって生まれたんだっけ?ああん?」

 沈黙。

「…猿、覚悟は出来ているんだな。」しばらくして桃太郎が厳しい剣幕で言った。鬼木には全く意味の分からない言葉だった。

「失礼なこと言うようじゃが、そこの猿さん」お爺さんが口を挟んだ。「あんた、女の子と付きおうたことはあるのか?え?」

「チッ、こんな場面でマウンティングかよ…」

「え?わしゃ聞いているんだが、答えてくれんか、お猿さん」

「…」

「やはりな」お爺さんがお婆さんと顔を合わせた。「こいつぁ、女の子ことがちっとも分かっとらんからこういう暴挙に出てしまう、哀れじゃけん、のう婆さん」

「お爺さんの昔に比べたら…」お婆さんが昔を思い出して少し笑いが溢れているようだった。「ほんと、お爺さんの昔の男っぷりに比べたら…」そこで、二人共また笑い転げてしまった。もう収拾がつかなかった。

「なあ鬼木さん」猿が笑いに負けじと耐えて続けた。「こいつの一番好きな果物ってわかります?」

「え、桃ですか?」

「それ、一番キライな果物なんですよ」

「猿」桃太郎が刺すように言った。

「あと、こいつの嫌いな食べ物、まだあるんすよ、まあ、この前匿名掲示板にも書いたら誰も信じてくれなかったけどね」

「わん!わん!」

「そ、それは…」鬼木はつばを飲んだ。

「きび団子」

「猿!」その瞬間、桃太郎がすっくと勢いよく立ち上がった。そして、腰に下げていた刀に手をかけた。「貴様…覚悟ができていると見ていいんだな」

「え?え?」

「太郎、致し方ありません。場合によっては鬼木さんも」

「そのつもりです、婆さん。」

「わりいな、鬼木さん」猿が言った。「巻き込むつもりはなかったんだけどな…でもあんたの公平性にかけたらこれだ…」

「それで最後か?」桃太郎が氷柱のような視線を猿に刺した。

「えっと…」鬼木には全く何がなんだかわからなかった。キジはずっと俯いている。さっき笑い転げていた祖父母も今はまた地獄の形相になって桃太郎をじっと見ている。イヌは鳴いている。猿は…なにか覚悟を決めたようにその場に座っていた。

 桃太郎が刀の柄に手をかけた。そのとき、鬼木はこれは抜刀術の構えだと悟った。でもいったいなぜ?なんのために?誰を切る?まさか猿?いや、さっき場合によっては私もと言っていた。まさか…

 白銀の刃が抜かれようとするまさにその時、携帯電話の着信音が鳴った。その場にいた誰もが凍りついた。音の発生源は桃太郎のネイビーブルーのパンツスーツのポケットからだった。

「もしもし、すまない。あとにしてくれ。ああ、すまない。早く済ませるから。今は少し待ってくれないか。悪いが。頼む、ああ。切るよ。」

 電話が切れた。

「しょうもない命だが、ひとときは命拾いしたもんだ、神様、意外と見てくれてるんだなぁ」猿が独り言のように言った。そして、桃太郎を睨んだ。

「鬼木さんは関係ないぜ」

「…」

「桃太郎、鬼ヶ島で約束しただろ、あれはおれたち四人のみの約束だ」

「…ならば」桃太郎が抜刀術の構えのまま、大きく息を吸った。「ならば、鬼木さん。誓ってください。あなたが編集される『桃太郎』には、猿の言葉は一切入れないと」

「鬼木さん、この条件、飲んでくれ」

「は、はい」

「もう一つ、今日猿から聞いたことは決して他には漏らさないと」

「はい、は、はい」

「いいでしょう…」桃太郎が目を閉じた。「猿、約束を破ったのですから覚悟は出来ているんですね」

「いつでもいいぜ、ただ周りを切らないようにな」

「あの鬼ヶ島討伐に嘘偽りはなかったはずだ…」

「いや、お前が最後に全部嘘にしちまったんだよ、桃太郎…お前が、全部真実を嘘にひっくり返しちまったんだ…」猿も目を閉じた。「鬼木さん、約束は破らないでくれよ」

 桃太郎の右足に力が込められる。腰がゆっくり落ちて膝が弧を描いて曲がり、流れるように半身の姿勢が傾いていく。美しい剣技の構えだと鬼木は思った。この男は見た目だけでなく技術もまた一級品なのかもしれないと思った。そう思っているうちに桃太郎の刀の持ち手から、ギリッという強く握りしめる音が聞こえた。一体なんてことに巻き込まれたんだと鬼木はそれでようやく我に返った。が、それも遅すぎた…。

 そして剣が抜かれて猿が切られようとするその瞬間、刃が切り裂くほんのかすかな手前で、宴会場に人が一気になだれ込んできた。見ると、全員女性だった。それを見た桃太郎は一瞬で刀を鞘に収めた。まばたきしていたら見逃すような電光石火の技だった。

「桃太郎ー!♡」

「きゃー!桃太郎様ー!♡」

 なんと入ってきたのは、「桃太郎ガールズ」だった。

「おやおや、さっき電話で言ったでしょう」桃太郎がにこやかな笑顔で言った。

「だって待てなかったんだもん!ねー!」

「ねー!」

「ハハ…ハハハ…」猿はぐったりと力が抜けてしまったようだった。それはイヌも、キジも同様だった。「ハハ…」

「じゃあ、婆さん、わしらはこのへんでおいとま頂こうかねぇ」お爺さんが苦々しさを押し殺して言った。

「ええ、ええ。今日は鬼木さんどうもありがとうございました。おおきに」

 そう言って、二人がゆっくりと宴会場から出ていった。その間も桃太郎ガールズは桃太郎の周りにべったりはべっていた。

「桃太郎様、どうしてこんな方たちと一緒にいるの?今日は私達と一緒に遊ぶ予定でしょ?もうずぅーっと前から決まってたのにひどい!」

「ごめんなさいね。どうしてもこの予定は大事でして」

「でも全然盛り上がってないじゃない!」ガールズの一人が猿を睨んで言った。「なんかキジさん以外だーれも見たこと無いし、もう、桃太郎様に近寄らないで!」

「これはみんな友人ですよ」桃太郎が涼しげに言った。

「ふうん、…ふん、あんたたち、桃太郎様に感謝なさい!さ、桃太郎様、行きましょ、行きましょ、私達もうシフォンケーキも焼いて準備万端なんだから!」

 桃太郎の腕が女の子たちに引っ張られている。その様子を残った4名の者はただ呆然として見ていた。あれだけ陽気で明るかったキジも、今では魂が抜けたようになり、表情もごっそり落ちていた。イヌは震えていた。

 桃太郎が出ていく直前、鬼木はやはり彼に向かって言うべきだと決意した。

「桃太郎、もし、もしあなたが今日のことをもう一度繰り返すようでしたら、私、鬼木鬼蔵は、あなたの正体を日本本国にお伝えします。『桃太郎』の内容も猿の証言に従って書き換えます。私はすぐにでも原稿を作りますし、一応この島にいる他の知り合いにも万が一のために渡します。あなたはたぶん平日は忙しいでしょうから遅くならないと私には手出しできないはずです。」私も震えていた。なぜならこのとき桃太郎があの祖父母と全く同じ、炎むき出しの眼で睨んでいたからだ。「それに…それに桃太郎ガールズの中にも私の知り合いはいます。もし私やここにいる三匹の動物に何かあれば必ず彼女があなたの正体を暴露します。いいですか、桃太郎、これは取引です。もしも…」

 そう言いかけたところで、桃太郎の表情が潮が引くようにすっと戻った。ジントニックを飲んでいたときのように滑らかな笑顔をしていた。

「鬼木さん、わかりました。いいでしょう。ただし、今日のことは忘れましょう。ですので、『桃太郎』は私がお伝えしたように出版してください。もちろん、お爺さん、お婆さんのお話も盛り込んでください。もし私がいつか今日のことで何か仕掛けてきたら、いいでしょう、もうひとりの私についての話に差し替えて下さって結構です。」

「わかりました。いいですね、皆さん?」鬼木は三匹の動物たちと目を合わせた。皆、力なく頷いた。

「『桃太郎』が、どんな物語として将来語り継がれるか、楽しみです。」

 勝ち誇るように笑ってそう言い残し、桃太郎は去っていった。鬼木にはあの地獄の形相といい、炎の眼といい、いまの後姿といい、彼の裏には鬼が潜んでいると感じられた。鬼退治で封じ込めたのは、もうひとりの鬼としての彼だったのではないか…。だとしたら、あの祖父母も正体は鬼だったのではないか…。

 もしも今、世の中に広まっている『桃太郎』が、「お爺さんが山で芝刈りに、お婆さんが川で洗濯に…」というストーリーであったとしたら、きっとキジも、イヌも、猿も、あれから無事平穏に生きて暮らしていったということである。時が流れてしまった今では、当時の命をかけたやり取りがあったことも一般には知られず、桃太郎はきっと絵本の中で無邪気に笑い、今日も子どもたちを楽しませているのでしょう。彼の裏に潜む鬼が隠し覆われたまま。