愛の祝福 −『輪るピングドラム』感想

※アニメ原作、映画のネタバレ含みます!!!

 

はじめに

 2022年夏、『輪るピングドラム』アニメ放映から10周年を記念して劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』が公開された。話の大まかな骨格は11年前のアニメ同様であったが、随所に新しく追加された場面が顔をのぞかせたり、ほんの僅かにセリフが追加されていたりと、初めて見る方はもちろん、これまでのファンもリメイクとして満足できる内容だった。筆者は本作を友人に紹介されて以来、切実なリアルと斬新なファンタジーを融合させた世界観に魅了され、今日に至るまで何かしら文学作品を読んだり、アニメを観たりするするときには、頭の片隅でこの作品との影響の相互関係を考えることがしばしばあるくらいだから、今も勢い余って感動しているのは否めない。とはいえそれも承知で、現代ならではの人間の苦悩や愛のかたちを直感的に伝える素晴らしい作品であるのは間違い無いと思う。

 そんな傑作『輪るピングドラム』(以下、ピンドラ、と略す)だが、その内容を語る上で難しいと感じられるのは、非常に多くのモチーフが多様な形で絡み合っている点である。1995年の地下鉄サリン事件から、家庭内暴力、「家族」の在り方、リンゴのメタファー、運命、罪と罰の救済、「子どもブロイラー」、宮沢賢治銀河鉄道の夜』、村上春樹『かえるくん、東京を救う』、などなど...。もちろん全てのモチーフを掬い上げて俎上に載せるのは筆者の力量から程遠い試みであるため、ここでは作品の中枢に位置づけられている「愛」に焦点を当ててみたい。かなり突飛な展開になるかもしれないが、一人のファンの少し長めの感想程度に受け取ってくれればと思っている。

 では前置きはこのくらいにして、早速本題に入っていく。

 さて、ピンドラで使われる「愛」という言葉は、一般にわたし達がイメージするような「恋愛」の「愛」とは少し違った形で表現されている。もちろん、「恋」から「愛」へ、といった名言めいたもの(?)もあるし、そこでの「愛」とも重なる部分はあるとは思うが、必ずしも一致はしていない。特殊な意味を表しているとは思わないが、訴えかけている意味が普遍的であるゆえに、逆に見にくくなっている印象を受ける。それでは、ピンドラにおける「愛」に託されているのは、一体どんな内容であろうか。

 この問いを考える上で重要なモチーフは、本作の中心的なシンボルの一つである「リンゴ」だ。ここではリンゴの描かれ方について二点ほど挙げて考えてみたい。まずは、①運命を乗り換える神秘的力を持った姉桃果の妹である荻野目苹果。それから、②小さな檻の中に閉じ込められた幼き冠葉が、同じく閉じ込められた晶馬に分け与えた果実としてのリンゴ。

 いずれもクライマックスで「愛」の円環運動に参加するのだが、その前に一つ一つ整理してみよう。

 

だから…わたしのために生きてほしい

 まずは荻野目苹果。先述したように、彼女は運命を乗り換える力を有する姉、桃果の妹である。姉の桃果は、運命日記というピンク色の日記を持っており、からだの一部に傷を負うことを代償にして、「運命」を変える―つまり、世界の風景そのものを変えることができる少女だった。一つの直線のように捉えられていた世界線を、まるで電車を乗り換えるように、別の世界線に変えることができるため、その力を以て父に虐待されていた時籠ゆりや、母に愛されず「子どもブロイラー」に送られた多蕗桂樹を救ってきた。しかし、95年の地下鉄事件で命を落としてしまう...。そんなある種の伝説とも言えるような少女の妹が、荻野目苹果だ。

 荻野目苹果は、登場したての頃は恋に取り憑かれた少女として少々エロチックに描かれていた。もともと彼女は桃果の残した運命日記に従って、多蕗と結婚するのが自分の「運命」だと信じていた。その信念を強固に内面化したため、多蕗に接近するためなら大胆な行動も厭わない恋の乙女だったのだが、物語中盤、車に轢かれそうになったところを晶馬に助けてもらったのをきっかけに、徐々に自分が晶馬に惹かれているのだと思うようになる。もちろん、突然その事件から急旋回して晶馬を意識するようになったのではなく、出会った頃から少しずつ惹かれていたのではあるが。とにかく、晶馬に対する自分の想いに気がついたことで、彼女には単線的「運命」からの解放が予感されていた。すなわち、それまで桃果の代わりとして生きようとしていた彼女が初めて「荻野目苹果」として生き始めた、ということである。

 「桃果」から「苹果」になった荻野目苹果。注目すべきなのは、彼女が「運命」から解放される一歩を踏み出した時、多蕗に恋したように晶馬に恋したわけではなかった、ということだ。むしろ彼女が獲得しつつあったのは、晶馬に対する「愛」である。ここで強調したいのは、最終的に荻野目苹果は「愛」を獲得したからこそ「運命」から解き放たれた点だ。とすると、彼女が最後に「運命」から解き放たれるまでの過程はどんなものだったか。

 まず、建設中のビルで多蕗との決着がついた後のシーン。一足遅く間に合わなかった晶馬は傷ついた冠葉と陽毬の元に駆けつける。陽毬が命の危機にあったのに何もできず、悲しみと落胆が混じっていた晶馬だったが、閉じ込められて出てきた苹果が彼の背中にそっと寄り添う。「だから…わたしのために生きてほしい」。彼女はこの出来事の前に、晶馬に「君は僕たちを許さない」と言われ一方的に悲しくも別れてしまったが、そのときも既に苹果は本心から晶馬を「赦し」ていた。建設ビルに夜が訪れた今も、傷ついた三人に優しく身を預けて、再び苹果は晶馬に「赦し」を告げている。事件の被害者だった彼女にとって、痛みを伴わずに赦すことはできなかったに違いない。しかし、彼女はその痛みを受け入れて「愛」に昇華させ、晶馬を赦すのだ。そして、ここで彼女が与えた「愛」は、物語のクライマックスで晶馬から返ってくることになる。

 そのクライマックスシーン。「運命の果実を一緒に食べよう」と自らの身を大きく広げて差し出し、運命を乗り換えようとした代償に、彼女は激しい業火に包まれてしまう。晶馬のために全てをなげうって、その罰を彼の代わりに受けようとした代償の炎。だが、晶馬は炎に焼かれる彼女を抱きとめる。「これは...僕たちの罰だから。…ありがとう、愛してる」。そう最後に優しく告げて、彼女を焼き尽くそうとしていた炎をすべて引き受け、苹果の手を残して、一瞬の風が去るようにふっと「この」世界から業火もろとも消えてしまう。最後の言葉「愛してる」は、苹果が彼に渡した「愛」を彼が自分の存在すべてをかけて返した、最大級のリターンであり、「わたしのために生きてほしい」という彼女の願いへの彼なりの答えだった。彼女のために生きるべく、彼は彼女を死なせないために、すなわち彼女を生かすために、彼はその命をつかった。「愛」を原動力に、彼女の生を世界で存在をかけて肯定すること。それが彼にとって彼女のために生きることであり、もっと言えば、あのクライマックスの瞬間こそ「愛」によって結実された彼の「生」が「君たちは何も残せない」という眞悧の虚無を打ち倒したのだった。話が絡まってきたが、「彼女のために生きる」べく命をつかって彼女を「生かす」ということ。その命をつかった瞬間を、晶馬の死による生の終わりだと単純には言えない…、むしろ苹果の生の再生=「始まり」だというニュアンスが最後のシーンには込められている。

 ちなみにアニメ原作では、苹果は晶馬が世界から去る瞬間に手を伸ばして、彼の手を掴もうとしていたが、今回の劇場版ではなんと手を伸ばした苹果がある言葉を消えゆく晶馬に全力で届けようとしていた。泣いた。個人的にはここの演出が本当に素晴らしかった。ありがとう。

 閑話休題。さて、ここまで来てピンドラにおける「愛」の輪郭が少しずつ明らかになってきたと思う。それは、全存在をかけて相手を想い抱きとめること…。己の全てをささげて相手に生を与えること…。共に生きることを揺るぎなく肯定し、手を差し伸べること…。こう捉えると、桃果は「愛」の模範的存在だった。

 存在をかけた愛の肯定性が、世界を滅ぼす否定性に克ち、単線的「運命」=「世界」を書き換える。「運命」に翻弄された子どもたちは、「愛」の力で「この世界」を変えることができる。存在の根底には「愛」があり、「愛」なき「世界」では存在を全うできない(=「透明」になる)。このあたりについては後に続く箇所で語れる分だけ語りたい。いったん、荻野目苹果が「愛」を獲得し、その肯定性により「運命」から解放されたことを確認したうえで、リンゴの描かれ方をもう一つ見ていく。

 

「愛」に基づく存在の贈与

 わたしたちの生は外から与えられた一定の条件によって形作られているため、完全な「自由」を享受することはできない。明文化されたルールと暗黙のルールでできた鉄格子。すべての人間は平等だと謳ってはいても、隣のあの人と自分が平等とは思えないし、常に公平な措置がなされるわけでもない。生まれた時に、その人生がたどる運命を決定づけられているような気さえすることもある。世界は公正であるはずなのに、誰もがそう高らかに謳い上げているのに、実際はむしろ真逆で世界は方便だらけだ。そんな世界はおかしい。誰もが幸福であるべきなのに、人々に息苦しさを強要して見過ごす世界はおかしい。だからテロで破壊して「虚無」にしてしまえばいい…。

 眞悧が世界を憎み、テロという最悪の暴力的手段に至る理由はおそらく上記のようなものだと思われる。彼が頻繁に使う、「箱」という言葉はまさしく不自由で不平等で不公平で理不尽な世界を表したものであろう。「箱の中にいる君たちは絶対に幸せになれない」、と彼は強調する。彼にとって「箱」とは限界の定められた不自由な世界そのものであり、テロで破壊すべき対象なのだ。

 そんな意味として用いられている「箱」だが、抽象的なメタファーだけでなく作中で明らかに物理的な「箱」が登場する重要なシーンがある。それは、幼い冠葉と晶馬が、箱型の小さな檻に閉じ込められてしまっているシーンだ。二人はいつからそこに閉じ込められているのか分からない。だが、食事も一切与えられず、飢えたままやがて死にゆくことが二人には分かっている。徐々に衰弱し、明日を迎えられるかも危うい状態に置かれた冠葉と晶馬。そしてもう命尽きるかと思われたその時、一つの奇跡が起こる。

 リンゴ。そう、冠葉のいた檻の闇の奥に一つのリンゴがあったのだ。突然現れたリンゴを見て喜び、冠葉は晶馬の檻にもあるはずだと言う。だが、晶馬のところにはない。選ばれたのは冠葉で、晶馬は選ばれなかった。そう晶馬は言う。しかしそのとき、冠葉は生を諦めた晶馬に向けて檻から手を差し伸ばす。その手には、半分に分けられたリンゴがあった…。

 選択が行使される場合、「選ばれる者」と「選ばれない者」が区別されることになる。また、選択の根拠は恣意的である。誰が選ばれるか、選ばれないかは公正な基準に則って決められる訳ではない。選ばれた者は運命を肯定的に捉え、選ばれない者は運命を悲観的に捉える。人間の意志ではどうにもならない選択の恣意性が世界を覆うなら、選ばれない者の中にはそんな世界に意味を見いだせず破壊し、世界を「作り変え」てしまえばいいという結論に至るだろう。

 その圧倒的な理不尽さを克服する手段が、「愛」を分け与えることだった。檻の中で衰弱していた二人にとって、突如出現したリンゴは、彼らの命を繋ぐものだった。その一部を分け与えることは、己の命の一部を分け与えることとほぼ同義である。だが、冠葉は半分を晶馬に分け与えた。命をかけた、自らの存在をかけた贈与である。この贈与の根底には、もちろん先程まで述べてきた「愛」がある。冠葉の贈与は、そこに込められた「愛」によって晶馬の存在を成立させた。理不尽さによって損なわれそうになった存在を「愛」が繋ぎ止めたのだ。つまり、恣意的な選択=「運命」を克服する手段は、「愛」に基づく存在の贈与だったのである。

 「愛」に基づく存在の贈与。肉体的なレベルで具体化すれば、これは愛しあう男女がセックスして互いの精子卵子を与えることに近いかもしれない。もっとも、その贈与の結果生まれた子どもは、偶然の存在として、つまり自らの意志とは関係なく世界に放り出されるわけではあるが。

 子は親を選べない。もちろん親も子を選べないが、子の場合はその生の条件が親の育む環境によって規定されるため、親よりも自由度が低いだろう。子にとっては、生そのものが恣意的な結果なのだ。不自由で不平等で不公平で理不尽な世界に生まれ落とされるかもしれない。だからこそ、愛が一回限りのものであれば存在は持続しえない。子の存在が損なわれないためにも、「親」は肉体的な贈与のレベルから引き上げて、その子に根源的な「愛」を与えないといけない。それが、理不尽な世界に落とされた存在を生かす、残された手段であるように思われる。

 もちろんこれは、産んだ親は行為の責任を全うすべき、といった話では決して無い。また、家族とは「産んだ」親と「産まれた」子のみによって構成されることを前提としている話でもない。むしろ逆である。生の誕生は確かに恣意的であるかもしれないし、一回きりの愛で子に持続的な「愛」が与えられないかもしれない。けれども、「産んでいない」人が、「愛」を与えることで、その子は子として存在できる可能性が開かれる。親を選べない子は、「愛」によって、その「愛」を分け与えた者と「家族」になることができる。高倉家の三兄弟はまさしくそのような関係であった。あくまで子が子として存在するための条件とは、かれの存在が揺るぎなく「愛」によって支えられているかであり、その「愛」において血縁関係は絶対的な要素足り得ない。父を亡くした冠葉は、陽毬から、飢えて死にそうになっていた晶馬は、冠葉から、子どもブロイラーに送られた陽毬は、晶馬から、それぞれ「愛」の贈与によって「家族」になることができたのであり、その点では「家族」とは「愛」が結んだ人間関係の一形態ということなのかもしれない。

 逆に、「愛」の与えられなかった子は、子どもブロイラーに送られて、その存在を「透明」なもの、つまり抹消されてしまう。個を構成していたすべての特徴が剥奪され、轟々と光る刃によって粉々に砕かれ、ガラスの破片のように跡形もなく存在が消し去られてしまうことになる。親に「愛」されず、自らを交換可能な存在だと悟った幼き多蕗少年も、「選ばれなかった」子猫に「愛」されなかった自分の姿を写し見て諦めた陽毬も、子どもブロイラーに送られてしまっていた。だが、桃果が、晶馬が、彼らを救った。命をかけて、傷の代償をはらって、手を伸ばしつづけた。君は決してピクトグラムのように交換可能な存在ではない。唯一で単独の君は他に替えのきかない、尊重が欠いてはならない存在である。偶然の存在として生まれた君の生には、かけがえのない意味がある。唯一で偶然うまれ落ちた生に意味を与えるのは、「愛」に基づく存在の贈与なのだ。それを象徴する言葉が、まずこれまで述べてきた「わたしのために生きて」であり、そして「運命の果実を一緒に食べよう」である。

 

運命の果実を一緒に食べよう

 「運命の果実を一緒に食べよう」。桃果のノートに記されていたはずの言葉を、最後ノートが灰になったにもかかわらず、苹果はその言葉を引き出すことができた。そして、それがトリガーとなり、彼らの乗っていた列車は単線的「運命」から別の路線に進行方向を切り替える。それはまさしく「運命」の乗り換え、すなわち、「運命」からの解放であり、あるいは「運命」を己の手で主体的に選び取る意志表明だったのだ。

 結果、その言葉をきっかけに「愛」の円環運動が息を吹き返す。

 「運命の果実」としてリンゴを分け合った幼き日の冠葉と晶馬は、「愛」によって理不尽な箱に収められた恣意的な「運命」から自分たちの生を獲得した。

 子どもブロイラーで砕かれる寸前だった陽毬は、晶馬からの「愛」によってその存在が透明にならず、かつて「選ばれなかった」自分の生が抱きとめられた。

 父を亡くしたうえに「選ばれず」葬儀で悲しんでいた冠葉は、陽毬からの「愛」を込めた絆創膏のおかげで、自分の生に光を見出した。

 かつて高倉の子どもたちがそれぞれ「愛」の刻印を分け与えたことによって輪が形成された「愛」の円環運動。「愛」で結ばれた子どもたちは、「家族」を作り、たしかにお互いに幸福な日々を送ることができた。「愛」を互いに交換し育んだからこそ世界で生きることができた。

 そして、クライマックスの今、プリンセス・オブ・ザ・クリスタルの上で再び晶馬がかつて冠葉に与えられた命を、かつてとは逆の順番で、つまり晶馬→陽毬→冠葉の順で返す。お互いがお互いの生を支え合っていた、その赤く燃える命の源が逆流する。かつて互いが生きる契機を生んだこの運動が再び脈動するのである。

 だがしかし、今回は以前とは異なり三人で完結する輪ではない。なぜならば、「運命の果実を一緒に食べよう」と、引き金を引き、この運動の原動力をもたらしたのはまさしく荻野目苹果だからである。

 苹果が「愛」を獲得し、晶馬を「愛」したからこそ、血液が巡るように再び「愛」の円環運動が起動できた。「運命の果実を一緒に食べよう」とは、残酷で理不尽な単線的「運命」から主体を解放し、お互いに生きようとする=共同的な生の意志の表明である。その言葉によって「愛」の揺るぎない肯定性が「箱」の持つ否定性―存在の肯定性vs存在の否定性―を克服する。「愛」に基づく存在の贈与を謳う言葉が、「運命の果実を一緒に食べよう」なのだ。

 苹果がスイッチを入れたことで、再び彼らの生の契機が回復し、冠葉はテロの実行を最後の最後で踏みとどまり、本当の光を見つけ出す。桃果の「愛」が、眞悧の「虚無」に打ち克った瞬間。

 存在=命は「愛」によって生きられるものだ。

 失われつつある陽毬の命を救うため、冠葉は全存在をかけて「愛」を彼女に与え、その代償に「この」世界から去ってしまう。けれども彼は最後の一時で「生」の意味つまり、存在をかけた「愛」の贈与による「生」を見出した。

 「運命」を乗り換える代償に炎に包まれた苹果を救うため、晶馬は業火を己が引き受けて「この」世界から消えてしまう。だが、彼は最後の最後に苹果に伝えるべき言葉を、彼女が「運命」を乗り換えた後も生きられる、存在の基盤となる言葉を、彼女に伝えた。

 そしてついに冠葉と晶馬の存在をかけた「愛」の贈与が、単線的「運命」に支配されていた世界を書き換えた。「運命」の子どもたちを自由にした「愛」。「愛」こそが、恣意的な選択によって「運命」が予め決定づけられた世界を克服できる。確かに「この」世界の風景を書き換えることは、その過程で何かを失わなければならないから、代償は一人で負うには大きい。けれども、それでも世界が理不尽な「運命」に支配されているならば、「虚無」に駆動されたテロではなく圧倒的な「愛」で対抗できる。偶然生まれ落ちた生の意味を「愛」ならば変えることができる。たとえ代償に「この」世界から去ることになっても、「愛」が繋がる限り、生ける者の存在を根源的に支える、そんな言葉を残すことはできる。

 村上春樹『かえるくん、東京を救う』で、かえるくんは地下の世界でみみずくんと戦った。それは地上の世界と確固たる壁で分け隔てられた世界ではなく、「ここ」には見えないけれど「そこ」に在る世界だった。確かにかえるくんは、ピンドラとは異なり、主人公の片桐に「愛」を与えたわけではない。だが、この作品がピンドラで何度も現れるのは、「この」世界にたとえなくとも、「そこ」に在った者の想いによって、「この」世界が支えられているというテーマゆえである。だから、「運命」を乗り換えた後の世界で陽毬の家族構成が変わっても、苹果と再び出会って友人になり、二人の兄の「だいすきだよ!」が彼女の生を支え続ける。それが彼女を生かす「愛」となる。

 輪るピングドラムは、「何者にもなれないお前たちに告げる」という印象的な言葉から始まった。けれども、「運命」から解き放たれて自らの「運命」を「愛」によって他ならぬ自分の意志で生きられるようになった今、「愛」があるから「何者」にもなれることができる。「透明」になることもなく、単線的「運命」に支配されることもなく、自らの存在を「愛」によって肯定できる。ひとつひとつの「愛してる」が、互いを結び、お互いの人生を意味づけ、「愛」の輪をつくることができる。そのように「愛」に満ちた「生」の志向こそが、他ならぬ「生存戦略」だとわたしは思っている。