健康診断の哀しみ

 シン・ノブオはとにかく腹が減っていた。朝食はもちろん、昼飯も食べておらず、さらに昨日は夕食すらとっていない。シン・ノブオ、26歳男性、大卒。とあるIT企業でSEとして働く平凡すぎる男だが、今日この日に限っては、彼こそが新大久保で最も腹を空かした男であったのは疑いのないことだ。なんといっても、山手線で一車両全体に聞こえる腹の音を響き渡らせた男である。なんといっても、チーズタッカルビの屋台に向かって突進する素振りを見せて周囲の女子高生を全速力で走らせた男である。そしておまけに喉も砂漠のようにカラカラ。…別に彼を責めるわけではないが、水くらい飲んだって良いのだし、しっかりとルールに目を通せば、昨日の夕食を抜く必要はなかったのだ。が、几帳面な彼は彼が思う「最高」の状態をキープしようとしていた。お金がない?いや、惜しい。貧乏ゆえではない。マゾヒスト?半分当たりだ。そう、彼はこの炎天下、待ちに待ったあのイベント健康診断のために、この圧倒的な苦難を、引きつった笑顔いっぱいで受け入れているのである。

 さて、気温35度を超える灼熱の新大久保ストリートをゾンビのように歩き抜けて、ノブオはつるつるした巨大な寒天のようなビルの中へと吸い込まれていった。流石に設備もろもろしっかりしたビルだから、彼の常駐先とは違ってちゃんと冷房が効いている。ここが、今日彼が年一回の健康診断を受診する、新大久保KANTEN健診センター。つまり、彼の言葉を借りれば、”決戦の舞台”ということになるのだ。

 声の形をとっていない枯れた声を出して受付を困らせ、更衣室で何度も深呼吸してからあのバスローブみたいな指定の服を着て、もう一度深呼吸してから彼は会場に足を踏み入れる決意を固めた。俺は今日、このために一年間、不断の努力を積み重ねてきたと言わんばかりの物々しい雰囲気を纏っているようである。それはもちろん看護師だけでなく、他の受診対象者もその圧を感じざるを得ないほどの静かな迫力を伴っていた…。

 が、もっとも、彼にとって大事な検査、いやステージは実のところたった一つであった。だからそれ以外の検査に関しては、殊の外注目する必要は特にあるまいし、彼だって他のステージなど、ただの前哨戦に過ぎないと考えていたのだから、今年は少し更衣室から気合を入れすぎていたというのが実情である。というのも、採血、尿検査、視力検査、聴覚検査、レントゲン、すべてそれほど気にかける必要もない些細な前座なのだ。去年だって、いや一昨年だって、これらのステージで辛酸を舐める思いをしたことは一度たりとてない。それは言い過ぎかもしれないが、とはいえあの”勝負”のステージを除けば、彼は視力検査では一度だけ「チャレンジ」を要求しただけで、それさえ目を瞑れば、比較的善良なお客様だった。現実問題、彼は社会人として疵という疵もない、よくできた男なのである。…たった一つのコンプレックスを除いては、という留保はすぐさまつけなければいけないが。

 昨年にその欠点ゆえに担当の看護師を困らせてから、彼だけは特別にその”勝負”のステージが最後にまわってくるよう取り計らってもらった。無論、彼としては悪意などさらさらなく、ただ「正常」に検査を受けたいがために、泣いてクレーマーにならざるを得なかっただけである。他の人の迷惑をかけてでも、それだけは決して譲れないラインだったのだろう。何が何でも心を落ち着けてそのステージに向かいたい彼は、普段の仕事では見せない尋常ならざる粘りを見せ、とうとうついに健診センターの方が折れる、というカノッサの屈辱もひっくり返るような偉業を去年成し遂げた。したがって今年は、彼だけは検診の順番が固定され、受付の人も看護師も医師も、彼にはあらゆる意味で並々ならぬ注目を置いていたのである。

 では一体、それほどまでに彼の魂に火を点ける戦場とはどこなのか?

「シン・ノブオさん、シン・ノブオさん、F会場へお越しください」

(ついに来たか…)彼は春の筍が伸びるように席を勢いよく立ち、背筋をぴんと伸ばして会場へ早歩きした。ツインテールの看護師が扉の前に立っていた。

「シン・ノブオさんでお間違いないですか?」

 首に下げていた保険証ストラップを見せた。「ええ」

「ちょっと裏返ってますね、失礼します…」

「ああ、これはとんでもない。…はい、私がシン・ノブオです」

「お待たせいたしました」確認が済み、ツインテールの看護師は眼を合わせた。「ではこちらにお入りください」

「よろしくおねがいします」

 まずは昨年同様、ウエストサイズの計測だった。取るに足らない。が、メジャーを巻き付かれると、不思議とお腹からキュルキュルと変な音が出て、危うくなぜか屁まで出そうになった。しかし、すんでのところで危機は回避された。

「では次は体重になります」スムーズな進行だ。

 もちろんこれも、取るに足らない。幼い頃テレビで、あれは中国雑技団のパフォーマンスだった気がするが、生卵のうえに足を乗っけて潰さないようにバランスを取る、物理法則を完全に拒絶した男がいた。彼も今そんな気持ちで体重計に乗った。59キロ。絶対に卵は潰れる。が、今は集中しなくてはならない。彼は汗をかいていないのに、額を手で拭って、息を整えた。一方、看護師は、なんかめんどくせー客だな、と心のなかで悪態をついていた。

「それでは次ですが…」

「し、静かに」

「はい?」看護師は今日既に100人以上対応しているので疲れも出てしまったのか、少し怒り気味な声がつい漏れてしまった。

「…」沈黙。

「あの、お客様」

「黙ってなさい!」彼の声が外のフロアまで響いた。異変に気がついた他の看護師が数人急いで扉を叩いて入って、彼の顔を見るなりその理由を納得した。彼ら彼女らも新人ツインテール看護師のそばにいることにした。

「申し訳ございません…」

「いいんです、わかれば。もう大丈夫ですよ。気持ちは落ち着いています。こんなことですべてをふいにするわけにはいきませんし。ほら今、僕は整ってます。さあさあ」

「かしこまりました。では次ですが、身長を測ります」

「ええ」そう言って彼はまるで死刑執行台に足を踏み入れるかのように、身長計の上に乗った。「ああ…ついに来たか」

 先程の怒声に驚いた看護師たちは、彼の様子を窺って黙ったまま待つことにした。

 しかし彼も目を閉じたまま沈黙している。

「シン・ノブオ様、準備はよろしいでしょうか?」と、痺れを切らしたベテラン看護師の男が声をかけた。「よろしいでしょうか?」

 まだ沈黙している。1分ほど我慢比べが続き、ついにノブオが開眼した。

「どうぞ」

「では…」そう言ってツインテールの看護師が通常どおり、すっとカーソルを降ろした。あっという間の出来事である。「164cm」

「はい?!」彼は思わず目を大きく見開いた。「はい?!え!?」

「次は」と新人看護師が言おうとした瞬間、彼は頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。そして何かを頭の中で整理したような表情をしてすっくと立ち上がり、一年ぶりにあのセリフを放った。

「チャレンジ」

「あの…?」

「聞こえませんでしたか?チャレンジ、です」

「お言葉ですが」ベテラン看護師が口を挟んだ。「チャレンジ制度は10年に1回きりとさせていただいております。お客様は昨年、例外的に5回ほどチャレンジを許しましたので、今年はもう」

「もう一度言います、チャレンジ」

「ですから」

「カスタマーファーストですよ、看護師さん」彼は涼し気な顔で言った。「チャレンジ」

 ツインテールの看護師とベテラン男看護師はお互いの顔を見合わせた。いざとなったら今年は奴が暴走することに備えて警備員も呼んでいる。待機中の医師には柔道五段の方もいる。もし何かあればお力を借りよう。と、ここまでベテラン看護師は考えてうなずき、シン・ノブオの方を向いて睨んだ。「いいでしょう」

「やれやれ」ノブオは内心ほっとしていた。

「ですが、これが最後のチャレンジです。もし次何か変なことおっしゃったら、来年から出禁にします」

「ええ」

「では準備をしてください」ツインテールの看護師が言った。既に後ろでは体重を測り終えた人が何人も待機しており、検査の列が渋滞し、詰まっていた。それもツインテールの看護師の怒りをかきたてた。

「いいですか?」もう一度ツインテールの看護師がイライラ気味に確認した。「いきますよ」

 返事なし。

「いきますよ?」

 彼は眼を閉じて言った。「どうぞ」そして思い切り背筋を伸ばし、顎をこれまで一年間、綿密に計算した最適な角度に引いて、運命が頭に振り下ろされるのを待った。が、眼を見開いた瞬間、彼の視界にゆうに180cmを超える男が目に入り、それが銀の湖のように水面が整えられた彼の心に、ほんのわずかにさざ波を立てた。ずれる頭の角度。萎える髪の毛。曲がる背骨。「あ!」と彼は取り返しのつかないタイミングで思わず言ってしまった。

「159cm」

「今のは不正だ!」彼は我を忘れていた「チャレンジ!」

「駄目です。次の方、どうぞ」

「頼む、チャレンジ!」

「どっちにしますか?164cmか、159cmか」ツインテールの彼女が淡々と尋ねた。

「どっちもおかしい!」

「ですが」

「去年は165cmを超えていたんだぞ!その前の年は167cm、なんでこんなに縮む?なぜ?どうして?」彼はまだ身長計の上に決して動かぬ石像のごとく揺るぎなく立って駄々をこねていた。「ほぼ毎日牛乳を飲んだぞ?足を伸ばして眠りについたぞ?背中のマッサージだって何度も行ったぞ?なのに…あなた達はそれを…」

「哀しいですが、そういう年もあります」彼女は少し同情していなくもなかった。「来年がありますよ」

「でもチャレンジはできないのだろう…」

 そして彼の眼に溜まった涙があふれそうになったとき、館内放送が流れて、身体計測は別の会場で行うとアナウンスがあった。ベテラン看護師もツインテールの看護師も、その場にいた他の看護師も、ローブをまとった受診者たちもみんなぞろぞろとB会場へ向かって歩いていった。誰一人彼を振り返らなかった。アナウンスも終わり、人々の足音は遠ざかり、それでも彼は呆然と立ち尽くしていた。

 シン・ノブオはどうしても身長計の上から降りることができなかった。許せなかった。看護師も医師も憎い。けれども許せなくはない。何が許せないのか自分でも分からないが、涙は溢れて止まらなかった。

 一人になってしばらくしてから、もう一度深呼吸して自分でカーソルを降ろし、その目盛りを確かめた。もう声は出なかった。涙目のせいかあまり良く見えなかった。でもうまく見えなくて、その方が幸せなのだと思って、閉幕した舞台にさよならを告げるかのように身長計を降り、シン・ノブオは静かに、孤独に、今年の健康診断を終えた。