ホームルーム闘争/逃走

 よもや大学に入ってまでクラス単位で学生が行動するとは思わず、入学直前の交流合宿では桜の花びらとトランプ舞い散る畳部屋の片隅でTwitterに熱中してぶつぶつ文句を呟いていたY翁は、最終日の山登りレクリエーションの休憩中、泥濘に足を突っ込み捻挫して一人早退せざるを得なかったし、初めての体育の時間においては必然的にTAとペアを組まされる羽目になった。筋骨隆々たるTAのハキハキした声のせいで自分のだみ声が際立つだけでなく、練習内容を説明するにあたり、ロールモデルとして駆り出されて公開処刑される水曜日の2限は彼を苦しめるためだけにあった。もっとも、さらに苦しんだことといえば、美女とイケメンが占有するフランス語の授業であり、いつまでも喉に痰が詰まったような発音を皆の前で連続で披露させられ、ある日咳がひどく止まらなくなって喘息発作だと理解したおめでたいお坊ちゃまの一人が救急車を呼ぶ顛末となった。結果、もちろん無事だったのだが、しかしこの事件がよほど屈辱的だったのだろう、結局Y翁はその後フランス語の教室には一歩も足を踏み入れることはなかった。

 とはいえ時間が経つにつれてY翁に対する風向きも少しずつ変わり、梅雨も明けた頃には徐々に親しまれ、クラスの輩共からは「お爺」というニックネームで呼ばれるようになっていたのだから、人の第一印象というのは少し悪いくらいが案外ちょうど良いのかもしれない。Y翁の場合は、天性のダサさだと思われていたあらゆる点が愛嬌を生み出す美点に化学変化した特徴的な例で、弱すぎる足腰も、ごぼうみたいな細い腕も、覇気がゼロの声も、すぐ詰まる喉も、いつの間にかすべてが愛らしい要素として彼に定着してしまっていたのだった。他にも例えばこんな日常的なやりとりが印象に残っている。

「やっほー!お爺!LINEで話題になった期末のシケプリだけど、あとで内容メールで送っとくね!(しかし入学前からお爺はクラスのグループLINEに入っていた!)」あるいは、

「…あの…今度ラーメン一緒に行きませんか…実は僕も2浪なんです…前からお爺さんとはいろいろ話したいと思っていて…(しかしお爺はたったの1浪だった!)」

 だがこの類の優しい揶揄を聞いているうち、Y翁がだんだん自分のキャラに味をしめるようになってきたのは紛れもない事実である。当面の間は、「お爺」で良いだろう。つまり、Y翁は「変わったいじられキャラ」としてようやくクラスに馴染んできたと自分で自分を納得させたのだった。

 こうして始めこそ散々だった大学一年の春学期も終わりにさしかかり、クラスのわだかまりも解きほぐれた頃、ついに秋の学祭に向けて出し物の準備が始まった。学祭のスローガンは「ジェネレーションZ」。昨年の冬に世間の関心を大いにひきつけたあの流行語、「Z世代」を念頭においてのことであり、ちょうどお爺の一つ下の現役合格した学年はほぼ1996年生まれということで、この新しく光り輝くワードには学内のみならず、大手広告代理店も首を突っ込んで取材にくるなど、大きな反響を呼んだ。出し物は、「Z世代」っぽいもの、というルールさえ守っていれば何でもOKということであるらしい。

「で、お前あれどう思うよ?」木曜の放課後、いつものようにつけ麺をすすりながら、今日も角刈りのAが呟いた。

「再来週のイン哲のレポート課題?」Y翁は必修インド哲学で単位が取れるか憂鬱な気分になっていた。

「いや、確かにそれも悩みだがちがう、その前のクラス会で挙がった出し物の案。なんかF子の言うように、TikTokを使った寸劇パフォーマンスになるんかな。ここだけの話、ぶっちゃけ言って、正気の沙汰じゃないぜ、あれ」

「たぶん明日には否決されるよ」Aが散らしたつけ麺の汁を見つめながらY翁は言った。

「今日は皆ただノリでTikTok推してただけってことか」

「わしはそう思うね」

「お前はどうなんだよ、2浪のX丸、だってお前…」と、そこまで言いかけたところで、2浪のX丸は濃厚海老出汁スープを一気に飲み干し、勝ち誇ったように器をカウンターの上に置いた。完飲の響きが店内に行き渡った。「…僕は、ちょっと何も言えないよ」

「え、なんでだよ」

「だって僕はZ世代じゃないんだ…正直わからないよ…」

「いいじゃねーか別に、たった2歳しか違わないんだぜ? 社会に出てみたらそんなの替え玉ほどの差ですらないに決まってる。お前みたいな長老が若いやつの過熱を抑えないでどうするんだよ?」

「じゃあAは現役だけど、Z世代と呼ばれることについてどう思うの?」

「考えたこともねーな。ぶっちゃけ何を意味しているかよくわかんね」

「お爺は?」

「わしは団塊じゃ」Y翁はお冷を飲んだ。

「すんません!替え玉お願いしゃす!」

「…僕は自分がZ世代でなくて寂しいけど、でも良いんだ。僕は僕でミレニアル世代って呼ばれてるから」

「ああ、別名Y世代って呼ばれてるやつか」

「そう」

「じゃあ2人とも2浪だし俺とはちょいと感じ方が違うのかもなー」

 Y翁は訂正せずに沈黙した。湯気が立ち昇るつけ麺の追加どんぶりがAの前に置かれた。

「けどTikTokはないぜ!」Aは濃い眉をひそめてまくしたてる。「だって一応俺たちそこそこ良い大学じゃん。なんか軽々しいというかさ、あれ女子高生が主に使ってるって聞いたけど?」

「でもF子だって半年前は女子高生だよね」

「まあ、言われてみればそうか!」そしてAはなぜか割り箸を新しく取り替えて豪快に割り、「でもとにかく、TikTokでメインの出し物が作れるとは思えねえよ。まさか劇をTikTokで行うってか? あるいはショートコント集でも作るんか? もし明日だれも異議なければ、ちょっくら俺が一発かましてやるぜ」と、勢いよくつけ麺をすすりながら、鼻息を荒立てているのだった。

 翌日、線形代数の教授が第12週目にして初めて授業を早めに切り上げず、90分間まるまる講義することに成功したため、クラスの士気は平常よりひどく下がっていた。中には明らかにストレスを感じてしまった輩もいるらしく、すでに役割分担が決まったシケプリ(試験対策プリント)作成の放棄を冗談交じりにぼやく者も現れていた。

 無意味な質疑応答が終わり、教授がご満悦の様子で教室を去ったところで、すぐにジャージ姿のF子が入れ替わるように入ってきた。彼女は賢明ゆえに線形代数を初っ端から切っていた有望株なのである。「さあ、お待ちかねホームルームの時間ね」

「昨日の続きだ!」と、待ってましたとばかり、2時間も連続で体育が続くのを喜ぶ男子中学生のようにAが手を叩いた。

「ええ、そうよ。席につかなくてもいいから、皆いったん注目してくれないかしら。10分もあれば終わるわ。…ありがとう。じゃあ、昨日のことだけど…」と言ったところで、我がクラスの「策士」、噂では入学試験首席、三国志研究会のホープである銀縁眼鏡のG太が突如口を挟んだ。

「F子さん、実はその件なんですが」そう言って起立し、コホン、と彼はわざわざ咳払いまでした。「実は、他にも案を考えまして…僕に発言を許してもらってもいいでしょうか?」

「ええもちろん、構わないわ。で、どんなアイデアなの?」

「アイデアを名乗るほどのものでもありません。まあ、ちょっとした思いつきですが」

「御託はいいわ。ジャスト・アイデアでも良いから述べなさい」

「それは…」と、策士が説明したところによると、以下のような案である。 

 ー策士曰く、Z世代の特徴は数え切れない程あるが、まずはデジタルネイティブであることを忘れてはなるまい。彼らの大多数が中学から遅くとも高校入学前にはスマートフォンを手にしており、日々のコミュニケーションはLINEを通じたSNSでのチャットで済ましている。もちろん、LINEだけでなく彼らはTwitterInstagramFacebook等、状況や場面に応じて多様なSNSを使いこなし、常に自分自身の情報をインターネットに流している訳です。したがって、デジタルネイティブ世代の彼らは、他の世代とはコミュニケーションのスタイルが根本的に異なっており、中でもセルフプロデュースには非常に長けていると言って良い。悪く言えば、自己顕示に対する忌避感が薄いのだが、この心性を利用するという点で僕はF子さんのTikTok活用案には概ね賛成なのです。つまり、F子さんのアイデアを拡張すればそれ即ち「自己の民主化」。誰もが好きなものを好きなときに好きな人と共に発信できる、そのプラットフォーム空間を我々のクラスはソフトにかつスムースに提供する。それこそが、F子さんが昨日仰っていたアイデアの種でした。素晴らしい種なくして素晴らしい芽は生まれない。そういえば昨今では、「親ガチャ」なる言葉がありますけれども……

「わかった、わかった策士。でも、知識自慢はよせ」我慢の限界に来ていたのか、今日も角刈りのAが割り込んだ。さすがラグビー部のタックル担当として有名なだけはあるのだ。しかし、Aはブチギレているわけではなく、むしろニヤニヤ笑っており、好意的に見れば策士Gに合いの手を入れているようにも見えた。「で、銀縁眼鏡の策士さん!それで結局、あんた何が言いたいんだよ!」

 ー策士曰く、では端的に述べましょう、しかしZ世代の特徴は当然ながら旺盛な自己顕示欲のみに留まるものではありません。彼らは…いや、僕達は人の内面に土足でズカズカ入り込まないようなコミュニケーションをプロトコルとしています。禁忌です。考えてもみてください。最近の若者が外で派手に口喧嘩している様子を見たことがありますか?あるいは彼らが獲物を狙う肉食動物のように社会に対して物理的にかつ積極的に喰らいつこうする傾向は強いでしょうか? 否、です。(です。の声がやたら小さかった)つまり、もはや我々は学園紛争など起こせない世代なのです。衝突への忌避感が世代全体に網目のように広がり、それどころか個々人の身体全体までもが防衛本能に支配されてしまっているのです。しかしこれほど空気を読むことに長けた我々ですが、一方でコストパフォーマンスを何事においても重視します。論理の順番から言えば、空気を読むコミュニケーションを成立させるために、あるいは「ハブられない」ために、供給過多のコンテンツ市場から流行のものを漁りに漁るのです。それも高速で大量に機械的に、ね。人から置いていかれないように我々はかつてない速度で走り続けることが運命として課されています。回転木馬のデッド・ヒートとは上手く言ったものです。さて、前置きが長くなりましたが、ここから本題に入りましょう。これまでの僕の話を大雑把に要約すれば…

 とうとうF子があくびをした。他のクラスメートの関心もスマホに向かっており、偉大なる策士Gの輝かしい演説は本人を除く誰一人にも記憶されない点で、希少価値を持つことになるのは疑いないように思われた。

 それから10分、15分経過しても、一向に彼の「ジャスト・アイデア」が顔を出す兆候すら見えないので、とうとうしびれを切らしたF子がジャージの袖をまくってすっと静かに手を挙げた。ひとり悦に浸っていた我らが愛すべき銀縁眼鏡は目がイッたまま口を猛スピードで動かし呪文を唱え続けていたので、Aがズカズカと近づき、彼の両肩をバシッと叩いて一旦座らせた。それでやっとこの長広舌にブレーキがかかったため、F子が一度軽く手を叩いてから、

「Gさん、ありがとう。とても示唆的で勉強になったわ。」と一言ねぎらった。

「ええ、私も良かったと思うわ。」と窓際にいた長身のV香も元ギャルのW美も口を揃えて言った。銀縁眼鏡にとって、3人もの女性に関心を持たれることは、これまでのバレンタインデーをすべて足しても足りないほどの奇跡であったに違いないが、当の本人は意識がヒューズしており、首をだらりと伸ばして天井を見つめていた。

「で、ホームルームの時間はまだ40分だけ余裕があるから、それまでに決めちゃいたいんだけど、他に何か案がある人はいるかな?」とF子が再び仕切り直した。

「いや」

「ないなぁ」

TikTokでいいんじゃね?」

ロシアンルーレットたこやき屋台は?」W美が発言したがスルーされていた。

「うん、じゃあ他の案もない、ということで今年の1年くじら組の出し物は…」と、F子が黒板に「T」の字をデカデカと書いているとき、干からびて力尽きたかのように思われていた策士Gの銀縁眼鏡が一瞬光った。消えかけていた生命の炎は、まだ絶えていなかったのだ…。

「委員長、僕は申し上げたいことがあります…」

「あれ、Gさん、もう決議は終わったよ?」

「け、決議?」

「うん、さっきみんなで話し合って決めたの」

「そ、そうなんですか…」

「そうよ」

「だとしたら僕は、賛成票には投じていません…」

「それは君の意識が戻ってこなかったからやむを得なかっただけです。ね? 概ね私のアイデアで良いんでしょ?」と、畳み掛けるように言って振り向き、F子は残りの文字をチョークで書いて、とうとうTikTok最後の「K」に至った。が、その最後の一筆を書き終える直前の瞬間、黒板にひびが入って割れんばかりの声でGが叫んだ。

「おかしいですよ!」

「どうしたんですか急に!」

「おかしい!何もかもおかしいんだ!」

「いえ!それはあなたです!Gさん!」堪忍袋の緒が切れて、教壇を叩き負けじとF子も叫んだ。「ねえ、ここは曲がりなりにも日本有数の偏差値75のトップオブトップの大学なのよ。なのにあなたの話ときたら、本校歴代学長の入学式式辞をすべて継ぎ合わせたとしても敵わないくらいの容量だったのよ!そのありがたみがわかるかしら? 一体全体どうやってこの大学の国語の試験を突破したのよ。それともあなただけマス目の小さい特別な解答用紙が与えられたってわけ? ああ、ダイバーシティ万歳だわ!」

「おい!あんまりだ!」と、すかさずAがタックル。

「F子さん落ち着いてください!僕はただ、こんな決め方おかしいって思っただけで」

「叫んだじゃない!」

「それは…」

「いいわ。決めました。学級委員の権限を行使します。今後2ヶ月間、ホームルームでのあなたの発言を許可しません。わかったらお座りなさい、エリート君。」

「ああ、、ああ、、!」

 でも夏休みの間だけ発言が認められないならほぼ恩赦だね、と2浪のX丸がY翁の耳元でささやいたとき、今日も角刈りのAが「ちょっと待ってくれ委員長」と言った。先程Gが演説していた際に、不気味にニヤニヤしていたAが何か陰謀を抱えて待ち伏せているように見えたのをY翁は思い出した。

「はい、Aさんまで、なんですか。そろそろ終わりにしましょうよ」

「いやあ、俺はさっきからずうっと民主主義のことを考えててね」

「民主主義?」

「そう、あんたの大好きな民主主義だ。」そう言うと、ラグビーで鍛えた肉体を誇示するかのように胸を張ってクラスメート全員の注目を寄せ集め、起業家がプレゼンで立ち回るときのように両腕を大げさに広げたAは一言意味ありげに呟いた。「これって独裁じゃないのか?」

「聞こえませんでしたけど、Aさん。何かおっしゃいました?」

「いや何も。このホームルームが民主主義で運営されていたんなら、クラスに居たのはたった一人のみじゃねえか、と言ったまでよ」

「見た目に反して随分ウィットな言葉遣いなのね」

「お?」

「でもさっき私は問いかけたじゃない、TikTokで良いですか?って。そしてそのあとの沈黙がこの決議の正当性を証明しているのよ」

「黙ってたらYesってか。お前、つけ麺食べ終わって黙ってても替え玉は絶対に来ないぜ。」

「なんですって?」

「わかんねえか、じゃあ」そう言って、Aは椅子を右足で踏みつけて、左手を胸に当てて大きく息を吸った。

「なあ、みんな!これがラストだけどTikTok寸劇で良いと思う人は座ったままで居てくれ。そうじゃなく、こんなのおかしいと思う人は俺と一緒に立ち上がってくれ。正真正銘、これが最後のお願いだ!」

「何をバカなことを!」とF子が叫んだが、そのスピーチの一言はクラス全体を動揺させるには十分で、一度感染が広がったざわつきは、流石のF子にも止められなかった。…が、しかし、意外にもAが思い描いていたシナリオ通りにはすんなりと進まなかった。頭でこしらえた陳腐な想像が現実の現実たる所以にぶつかった結果であろうか。勝利を確信していた彼の期待に反して、誰一人すぐさま立ち上がろうとする素振りは見せなかった。それほどまでに皆、空気を読むことに長けていたのだろうか。あるいは、恥、恐怖、空腹、倦怠感。線形代数の後の時間というのも悪く影響したのだろうか。やがてざわつきは沈黙へと収束し、誰かが我慢しきれずオナラをしたのを皮切りに教室は屁と静けさに包まれた。ただ諦念のみが漂っていた。その様子を見たAが「そうか…」とひとり呟いてしおれて座ろうとしたとき、「私は戦うわ」と、どこかから小さく声が聞こえた。

「私は戦うわ。」そう言って立ち上がったのはW美だった。

「W美さん?」F子はつい変に高い声を出してしまった。

「ええ。だって、納得できないもの」

「あなたはTikTokじゃ駄目だって言うの?」

「駄目というより、もっと話し合った方が良いかなって」

「話し合ったじゃない!」

「落ち着けF子!」Aが制止した。そして、「そうこなくっちゃな…ククク」と反撃の狼煙をあげる主人公気取りで皆に聞こえる独り言を呟いた。

「ねえ、他の人も遠慮しなくていいわ。これで立ち上がったからといって誰かの気持ちを害することにはならないわよ。それに、モヤモヤしたまま夏休みの準備期間に入れば、良いものだって決して作れないと思うわ」

「さすが元ギャル、そのとおりだぜ」

「じゃあ…」と次にB男が少しためらいがちに立ち上がった。そして、定食屋の息子N助、ツイッタラーP菜も続いて腰を上げ、やがてクラスの約半分がこの運動に賛同しはじめていた。ぞろぞろ立ち上がる様子を見て、Y翁は中学の英語の授業で見せられた公民権運動のビデオを思い出した。Aが狙った、いや願っていた展開が確実に、着々と近づいてきているのが分かった。

「さあ、F子。これが俺たちの”意思”だぜ」

「揃いも揃って帰りの時間を引き延ばそうとするなんて…どうかしているわ!」

「だが、これが民主主義だ」そして自慢気に言い放ったその時、Aの顔の半分がカーテンから漏れ出た午後3時の陽光に照らされた。彼は敏感にもそれに気がつき、まるで啓示を受け取った聖職者のように再びゆっくりと左手を胸にやり、平穏を祈るように眼をそっと閉じた。その姿を見た数人が―まさか神々しいとでも思ったのだろうか―また立ち上がった。

「これだから…」とF子が教卓で頭を抱えた。「これだから、民主主義は…」

「なに?いまなんて言ったの?F子さん!」

哲人政治で良いのよ!この愚民め!」

「そりゃ聞き捨てならねえなァ!」

 かくして、ついに戦いの火蓋が切られてしまった。AはF子に向かってその巨体を以て突撃を試み、一方F子のInstagramをフォローしている「親衛隊」たちは彼女の前に肉弾バリケードを即座に築き上げて、爆進するラグビー・チャリオットを力の限りで食い止めようとしていた。組み合って絡み合った男たちの低い唸り声が教室を根底から揺るがそうとしていた。W美は、理性を失って暴走した、あのつけ麺怪獣を落ち着かせようと必死に叫んでいた。だが、空しきかな。それも及ばず、もはや一度燃え広がった革命の炎を鎮火させることなど、彼女一人では手に負えないことだったのだ。教室の局所で乱闘が起こり、くじら組のメンバーはこれまでに経験したことない闘争の高揚感に酔いしれていた。

 満場一致で誰がどう考えても戦力になりえないY翁は、その細い身体を活かして乱痴気騒ぎの隙間を縫うようにして教室から脱出しようとした。なんとか戸までたどり着いて開けようとしたとき、後方からAの怒声が矢のように飛んできた。

「待てお爺さん、どう思う!」ビクッとしてY翁は振り返った。「はたしてジェネレーションZとは若者の消費喚起を促したい先行世代の欲望が反映された単なるマーケティング用語に過ぎないからTikTokを嬉々として使う俺達は広告代理店のマリオネットだと思うんか!?」Aは鍛え上げられた鋼鉄の上半身を肉の防壁にめり込ませながら、一切噛むことなく、昨晩策士Gから教えられて丸暗記したセリフをぶつけた。が、この場から逃げること以外に何一つ考えられないY翁にはリスニング試験に集中できるほどの余裕はなかった。

「いえ、お爺さん、カンペしか読めない筋肉系陰謀論者に騙されては駄目です!」防壁の上に立つ指揮官ジャンヌ・ダルクことF子が、髪を逆立ててAを跳ね返すように負けじと声を張り上げた。「TikTok万歳!TikTok万歳!TikTok万歳!」それは大合唱のフィナーレのように響き渡り、教室にかつてないほどの熱気が満ちるのに十分すぎるほどの呼びかけであった。「万歳!」

 引き戸の前でY翁は呆然と立っていた。わしに何ができるだろうと思って右の手のひらをしばらく見つめた。半年前は膨れ上がっていたペンだこはもう消えていた。そして顔をあげると、禍々しい悪意と荒れ狂う暴力が混沌とするホームルームの光景がやはり相変わらず広がっていた。瞬きをしても同じ光景。すべて幻覚ではなかったのだ。一体なんのための受験だったのだろう。一体なんのための大学進学だったのだろう。誰もが普段より2オクターブ高い声で罵り叫び、誰もが春の体力測定のコンプレックスを晴らすかのように腕を振り回していた。誰もが社会の構成員たる理性を失い、誰もが眠っていた闘争本能をむき出しにして戦っていた。なのにわしだけ逃げるのはおかしいのではないか…一歩…踏み入れて戦うべきか…

 だがその刹那、抜け殻のように立ち尽くしていたY翁の手を、あの2浪のX丸がすっと引いて思い切り駆け出した。突然のことでY翁は驚いた声をおもわず漏らしたが、最高速度に達したジェットコースターのように勢いよく教室から弾き出されると、暗闇に蝕まれていた視界がパッと開けて、Y翁はようやく正気を取り戻して体勢を立て直し、彼ら二人は自分たちがどこに向かうべきかわからないままただ全速力で走って逃げた。廊下という廊下をひたすら駆け抜け、階段を降りては昇り、キャンパスを一周するほど走った。そして、大学講堂の前にたどり着いて芝生の上で大の字に寝転がり、夏のみずみずしい空気と一体化した瞬間、線形代数のあとの休憩時間に遅れていただくはずだったお弁当を、凄惨な光景が広がるあの教室に置き忘れてしまったとY翁は気がつき、言いようのない後悔の念が清々しさの端から滲み出すようにじわじわ押し寄せてくるのだった。