新卒2年目の冬 仕事で勉強になった本

 学生時代はITに全く縁がなかったけど、最近少しは理解できることも増えたから、よちよち歩きの初心者がワンステップ階段を上がったことも記念して、勉強になったと感じた本を紹介してみる。基本的に小説ばかり読みがちな自分がそうだったのでこれはITとか全然興味ない人や過去の自分に何かしら届けばいいなと勝手ながら思う。

 

 

1.図解コンピュータ概論(ソフトウェア・通信ネットワーク)

試験の勉強している時にテクノロジ関連が苦手だな〜と思って図書館でいろいろ手にとって一番馴染んだ本。シリーズはソフトウェア編とハードウェア編と2冊あるが、どちらか一つといえば、ネットワークやデータベースまで広くカバーしている前者を推したい。記述の仕方としては教科書を思い起こさせるので、そういった文章が苦手な方にはちょっと勧めにくいのもあるが、ありとあらゆる教科書がそうであるように、何度か意味が取れるまで読めば、腑に落ちてくる記述のように思えてくるかもしれない。

職場の人が連呼する「プロセス」のイメージが全く沸かなかった自分には、豊富で的確な図のおかげでその後の会議ではプロセスとかOSの理解度がちょい上がったので、割と感謝している。あとはファイルとかディスクの話も勉強になった。とにかく全般的に薄く内容をさらっていくスタイルなので、基礎知識の整理に良いのかもしれない。

shop.ohmsha.co.jp

 

2.スッキリわかるSQL入門

ミックさんのSQL初心者本と迷ったけどこっちにした。先生と生徒の講義形式だし、練習問題もたくさんあるし、説明も丁寧なので。おかげで同じ時期に入社した人にSQL教える時にどう説明するかという観点でも役に立った。JOINの説明が図が多くてわかりやすいと思う。

とはいえSQLクエリについては、とにかく書いてトライアンドエラーして練習しないといくら知識持っても意味ないので、大雑把に構文理解したらあとは書くのみのような気もする。その点、この本はDBMSの導入をせずともクエリを実行できる環境を用意してくれているので、練習にうってつけなのではないか。

book.impress.co.jp

 

3.達人に学ぶDB設計指南書

ミックさんのDB本は実務目線と理論目線のバランスが良く、なるほどと膝を打つ記述が多いので良き。

SQLできる、と言うと人によって様々に理解(誤解?)されがちだが、クエリ書く以外の部分の基本的なところを勉強できた。正規化とパフォーマンスのトレードオフ関係とか個人的には興味深かった。物理設計はまだ良くわからない。とはいえ論理設計の部分をある程度読んだら、業務で使っているテーブルを見る目も変わったし、その後のデスペ試験でも役に立った。とはいえ咀嚼しきれていない部分が多くを占めるので、ここで紹介する以前にもっと読み込むべきかなと反省もしている。

達人のSQL徹底指南書も良い。

www.shoeisha.co.jp

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4.スッキリわかるPython入門

仕事でプログラム書いてレビューとかする訳ではないので、極論プログラミングできなくてもなんとかなるのだが、一応システム扱っているから少しは知っておいた方が今後のキャリアのためにも大事かなと思って入門した。

Python入門とあるが、この本はプログラミング入門でもある。扱っている言語がPythonゆえ書きやすいのに加えて、これもスッキリわかるシリーズの講義形式で展開されるのでとにかく説明がわかりやすい。基本的なところが分かったところで、自分はPandasを触って自分の業務を効率化するツールを作れるくらいにはなった。最初から公式ドキュメント読めるほど全然強くないので、こうやってレンガを一つずつ積んで勉強できたおかげで、少なくともプログラミング拒絶反応はなくなった気がする。

book.impress.co.jp

 

5.おうちで学べるサーバのきほん

サーバーの基本的な入門書はそこそこあるけど、一番記述が詳しいのはこれだと思う。サーバーとは何かという概念的な話だけでなく、実務で役立つTipsも具体的に書かれているので、他の部署のサーバ管理の人が何しているのかちょっと分かった。現物の写真も載っていて(ハードウェアの中身解体とか)、知識が知識の中だけで完結する恐れもあんまりない。

それにしても世の中にはありとあらゆるサーバが立っている。メールサーバ、ファイルサーバ、データベースサーバ、Webサーバ、認証サーバ、SIPサーバ、DHCPサーバ、DNSサーバ、プロキシサーバ、ウォーターサーバー…。自分は社会人なりたての頃にサーバが何を指しているのか全くわからなかったし、あ〜これかな〜と思って、机の上の黒いデスクトップをぺちぺち叩いて「これなんですか?」と聞いて少しあきれられたのを訓戒としているが、そういう人が第一印象を挽回するためにぜひ勧めたい。しかし未だにサーバーにするかサーバにするか迷っている。

www.shoeisha.co.jp

 

6.初心者でもしっかりわかる図解ネットワーク技術

3分間ネットワークという世にも有益なネットワーク学習サイトがあるが、その管理者の方が書いた本。これも講義形式で、図が豊富で良い。特にネットワークは図がないと理解の試みがいつか挫折する気がするので。

というか、類書のネットワーク入門書よりかなり細かいし、難しい気もするので、3冊めの入門書、としての位置づけくらいが良いような感じもする。自分はエンジニアではないので、正直細部まではあんまり理解できていないと思うが、けれども、原理的な説明を丁寧にしてくれる本は意外と多くない気がするから、勉強になった本として挙げた。第1章、第2章だけでも読む価値あると思う。

ちなみに、コンピュータ・ネットワークも大著だが、つまみ食いして読む分にはすごく良さそうである。

bookplus.nikkei.com

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7.ニュースペックテキスト応用情報技術者

知識の整理のために紹介。カラフルな図が多くて、やけに冗長な記述もなく、全体のバランスも良いので選出した。

IPAの宣伝になる気がするが、ある程度業務経験したら資格受けると、”なんとなく”得た知識の整理になって良いと思う。資格が直接実務に役立つことは稀だけど、会議やチャットでわからない言葉とかが減って、全体的な知識は確かにつくので、普段の業務の解像度が高くなるメリットはあるのではないか。

koukou.tac-school.co.jp

 

8.現場のプロから学ぶSEO技術バイブル

「さあ君もSEOやってみよう!」と突然お告げが振ってきて、最初はライティングとかコンテンツSEO方面で重要そうなことを学んでいたが、極論、コンテンツSEOGoogleが評価する文章を書く、とにかく書く、に尽きる気がしたので、もうちょっとテクニカルなことも知りたいと思って手に取った。Webサイト自体は既に制作会社が作ってくれたのがあったので、運用面でどんなHTML書いているのか、そしてそれは「良い」書き方なのか解析するのに役立った。

Web技術についてある程度理解が深まったら、Search ConsoleとPageSpeed Insightsを準備して、自社のサイトがどういう評価を受けるのか、この本を携えて逐一確認するのが良さそうだと思う。SEOは巷に言説が溢れかえっているが、基本を大事にする以外近道はなさそうである。

book.mynavi.jp

 

9.わかばちゃんと学ぶGoogleアナリティクス

やはり漫画形式はわかりやすい。それにわかばちゃんもかわいい。もちろん内容も良い。特に、アクセス解析は基本的な単位の理解がズレると妙な結論を導き出す可能性が高いのでChapter3等でしっかりとツボを押さえるのが肝要かなと思う。

一方、本書はユニバーサルアナリティクスの解説なので、2023年の7月に同サービスが終了することも踏まえると、そろそろGA4の勉強を進めたほうが将来的には良さそうでもある。とはいえ、アクセス解析の根底的なところがまるごとひっくり返るわけでもないと個人的には思うので、アクセス解析とは何ぞや?という方にはおすすめ。

www.c-r.com

 

10.ITIL はじめの一歩

ITIL(アイティル)は、ITサービスに限定されたサービスマネジメントのベストプラクティスというより、他の領域でもそこにサービスが有る限り、役立つ考えがきっと拾えるはずの指針だ。顧客目線で、価値を提供し続けるためのメソッドが紹介されているのだ。本書は、そういう意味で、ITの現場に限らず、八百屋とかでもITILを使ったら業務がどう改善するか等がエピソードを交えて解説される。

職場では、多くの知識が暗黙知として共有されていることがしばしばあるけれど、それゆえに人によって使っている言葉の意味が微妙にずれていたり、管理者しか構成の詳細がわからなかったり、過去資料と最新資料がごっちゃになっていて、何が正しいのかわからなかったりと、トラブルを引き起こす火種はデスクの暗い隅でくすぶっているものである。サービスは開発も大事だが、運用して長く付き合っていくことも踏まえれば、開発の尻拭いを暗黙知で解決するのは長い目線で見るとリスクになりうるかもしれない。ITIL、というかサービスマネジメントの活躍できる場所は案外広く、そして細部にある気がする。

www.shoeisha.co.jp

 

 

〜★

 

まあ、まだまだ積読もあるし、ここで紹介した本も恥ずかしながら全部きちんと読んでる訳ではない。こうやって文章を書いていて、自分の知識不足だったり、不真面目な勉強態度が少し思い出された。でも趣味で文学読むのが好きだからこそ、最低限仕事はできるようになっておきたいと思うようにはなった。それに勉強はわるくない。これからも好奇心をもって勉強しつづけられればと思う。さて今年もそろそろ仕事納めである。

 

 

欠けた足を巡る冒険 ― 『すずめの戸締まり』感想

 ※!!!!ネタバレ含みます!!!!

 

 

 

 

 新海誠監督の『すずめの戸締まり』がとても良かった。観終わった後の余韻がすごく心地よい。この余韻に勇気づけられたいと思った。心の中にながく残っていてほしい。

 たくさん良かったところがある。

 まず村上春樹の作品が大好きで、そしてその作品の周囲で支える批評群も好きな筆者としては、本作は観ていてとてもエキサイティングだった。細かい描写で監督が村上春樹好きなんだな〜と嬉しくなった。しかしとりわけ本作の大きな枠組みを形作った村上作品を挙げるとすれば、やはり「かえるくん、東京を救う」だと思う。〈災〉としてのみみずくんはもちろん、見えないところでこそ大事な仕事がなされるのも「かえるくん」の重要なテーマの一つだった。それから、かえるくんに出てくる片桐という男が、みみずくんと対峙するかえるくんを応援するという構図があるけれど、私はスクリーンに向かってまるで片桐になった気持ちですずめと草太を応援していた。おかげでこちらも勇気づけられた。映画を観終わった方も、これから観る方も一読の価値はあるのでぜひ…。

 宣伝めいてしまったが、『すずめ』の良かったところはまだまだある。特にエンドロール中に感極まりながら、なんとなくこれが監督の最高傑作だと感じた。ちょっと変かもしれないが、新海誠監督も随分遠くまで歩いていったんだな…とか思った。

 『君の名は』以前の監督はボーイ・ミーツ・ガールの名手だった。99%の美しすぎる純粋さと、1%の感傷の重さをたくさん吸い込める作品を思春期の私は好んでいた。ある雨の日は学校をさぼって新宿御苑に行った。なぜか俳句を読んだがいま手元に残っていなくてどこか安心している。それはともかく、『君の名は』からの監督は明らかに災害を意識するようになった。この日本という国の歴史で脈々と繰り返されてきた〈災〉。それを『君の名は』と、『天気の子』では迂回するような形で描いた。あの美しい流星群と、澄み切った晴れ渡る空の映像。それらは観ている自分を魅了した。けれども、どちらかといえば、やはり監督熟練のボーイ・ミーツ・ガールに焦点が当たっていたように思う。それはそれで良かったが、『すずめ』を観てからは、『君の名は』が一皮むけたように、『すずめ』はそれまでの監督の作品から力強く脱皮して翼を大きく広げたような印象を受けた。

 一体、どう飛躍したのか。筆者個人としては、この作品は今までより真摯に、そして真っ向から向かい合う形で、東日本大震災後の傷と再生を描いたと思った。あるいは、日本で繰り返されてきた災害の記憶の中へ分け入ったようにも思える。監督のそのような試みは、本作の重要なモチーフである〈常世〉と〈現世〉をつなぐ〈後ろ戸〉に結晶されているだろう。すべての時間が存在する死の世界と、時間が流れ続ける生の世界―そして、〈災〉は否応なく人間の生の世界の文脈と関係なく死の世界へと引きずり込む。死の世界から生の世界へと暴発する〈災〉を封じ込めるのが、本作の〈後ろ戸〉と、〈要石〉だった。『すずめの戸締まり』は、この〈後ろ戸〉を通じて死の〈常世〉と生の〈現世〉を往還する物語である。それが、ボーイ・ミーツ・ガールよりも大きく前景化されている。

 往還する冒険者の主人公、すずめ。彼女には大切な記憶が詰まった宝物があった。それは幼き彼女の心を愛で満たしてくれたものだ。母が塗った優しい色が今も彼女を温めてくれるものだ。しかし、それはあの災害によって、一つ足が欠けてしまった。その足の不在は彼女の喪失のようであった。足が三本の椅子。

 母を亡くした彼女の喪失を抱きとめてくれたのは、叔母のたまきだった。母子家庭で親を亡くしたすずめをたまきが引き取った。降る雪の虚しさからすずめを救った。抱きしめて家族になった。その温み。…このように歳の離れた二人が「親子」になるのは、これまでの監督の作品には多分なかったと思う。これまではボーイ・ミーツ・ガールの横の糸が強調されていたが、本作はそれに加えて縦の糸が通っている。私としては、この縦糸と横糸の結び目があの椅子だと思った。あの椅子には、草太が存在し、足の喪失が存在していた。

 異形の姿に変えられてしまっても尚、すずめの草太に対する愛としか他に呼べない純粋な愛ももちろん最高だったが、私はそれ以上に喪失を補った叔母の思いに心を打たれた。喪失があっても、叔母がすずめの日常を回し続けたのだ。おはよう、いってきます、いってらっしゃい、お弁当…。この世界を満たし尽くす日常のささやかな愛たち。その積み重ねの記憶が喪失の存在をうまく認識できない彼女を支え続けていた。時には雨が降り涙が落ちる日もあるが、それでも温かい記憶の手触りがある限り、それを忘れない限り、明日は晴れ渡り前を向いて生き続けられる。叔母が日常に居たからこそすずめは最後まで非日常の冒険を完遂できたと思う。

 さらに故郷のあの場所への移動は、すずめにとって形而上的な冒険でもあったはずだ。冒険の途中で喪失を再び経験した彼女は、喪失が何かを思い出し、もう一度、あの場所で取り戻しに行く。心の扉を開き、向こう側の世界に足を踏み入れて、そこで過去と現在の喪失を力の限りで受け止める。そこには〈災〉vs〈個〉の対立軸がない。前作は〈個〉が打ち勝ったが、本作はその対立を超えた。まさしく、過去の〈災〉と現在の〈個〉の両方を救う冒険だったのではないか。それは過去の自分を救い、母を救い、今の自分を救い、今の彼を救う。死ぬことは怖くない、だがそれでも愛する人がいるこの世界を生きたい。それでも明日を生きろ―たくさんの声が広がる記憶の風景を感じ、聴き、見届けた彼女は、その日常の温かみに触れ、〈災〉の暴発を食い止める。そして、過去の〈災〉で傷ついた幼き自らを、すずめは子としてではなく、明日の希望として抱きしめる。そのぬくもりがあるからこそ幼き彼女も、今の彼女も、二つの世界の冒険から還ることができる。再び日常に帰ることができる。日常で愛を受けることができる。共にまぶしい朝日を浴びられる。

 大切な記憶が塗り込められたあの椅子は、あの日、たしかに足が欠けてしまった。それは一見すると不在に見えるかもしれない。でもそこには喪失が存在し、そこに宿る記憶がある限り、その喪失を癒やす光の愛を受けられる。たとえ死が隣にあろうとも、そのささやかな愛があふれる日常を生きたい。そうして一回り大きくなって還ってきたすずめの姿に、私はとっても勇気づけられた。未来へ歩んでゆくすずめの決意と、彼女と手を取り合う人々の優しさが、何より、良かった。

 かけがえのない人と別れるときに、またな!と伝えたくなる、そんな作品。だからきっと明日も前を向けるのだ。いってらっしゃい!

 

あれからの桃太郎

 一年前に鬼ヶ島から帰ってきた時、猿はこう思った。今おれの隣でチヤホヤされてサインを求められるこの男は決して英雄ではない、と。確かにジャニーズ並みにイケメンかもしれないが、正体はとんでもない残酷な嘘つきなのだと皆じきに知るだろう、と。だからそれまでの間、おれはこいつの綺麗な仮面が剥がれ落ちるのをウキウキ楽しみにして過ごそう、と。

 英雄の凱旋を祝して港から宴会場までハイビスカスを飾り立てた、あの祝勝会が盛り上がる最中、猿ただ一匹がほとんど嫉妬で構成された悪意をぶくぶく膨らませていた。いずれその時が来たら、自分こそがこの酔った群衆共に真実を突きつけてやると息巻いていた彼の姿は、傍目から見ればただ純粋に飲み会を楽しむ猿に過ぎなかったに違いない。けれども、その胸中ではどす黒い怨嗟の声が渦巻いていたことをこのときはまだ誰も知る由もなかった。が、その真っ黒な悪意の結末も猿はこのとき知る由もなかったのだが、それはまた後の話である。

 さて、あの鬼ヶ島の戦いから一年が経った。

 ジジジッ…。

 ジジジッ…。

 ジジジジジジッジジ…ピ…。

 今日も容赦なく鳴る目覚ましを叩いて止めて、起き上がってからカーテンを開けたときには休日だったと気がついた。そしてほっとして寝間着のままベランダに出てみると、やはり先週同様に今日も広場には人だかりができているのが見えた。あれから一年経ったというのに、まだ熱は冷めないのかと目をこすりながら呆れていたら、外からお馴染みの言葉が聞こえてきた。

「桃太郎様ー!♡」

「え!どこ、あ!!!桃太郎様ー!」

「9時15分、今日も時間通りいらっしゃったわ!…どきなさいよ!ここ、わたしが先に陣取ったんだから、ああもう!桃様ー!」

「桃太郎様!こっちを向いてー!♡」

 奴が群衆の方を向くと、ますます黄色い声が鋭くなった。

「きゃーーーー!!!♡♡」

 英雄が登場してもしばらく広場の興奮ぶりが収まらない様子を見て、猿は舌打ちしてから薄暗い部屋に戻った。せめてタバコでも持って朝の空気を吸うべきだったなと思った。せっかくの休日の朝だっていうのに、これじゃあ全然リフレッシュも出来たものじゃない。なにが桃太郎様だ、クソ…。

 そう、あれから一年、鬼の脅威が消えて晴れた島には平和が訪れていた。鳩も喧嘩ひとつしない平和すぎるほどの平和である。

 ご存知の通り、かつては鬼ヶ島の存在が島の経済成長を妨げており、島はそれこそ桃太郎が凱旋するまでは総力戦体制の状態にあった。つまり、島のありとあらゆる人的リソース、物的リソース、情報リソース、カネがすべて鬼ヶ島制圧に費やされていたのである。

 しかし、英雄の出現により瞬く間に鬼ヶ島を制圧すると、それまで戦争で屈み込んでいた島の経済はバネが伸びるように跳躍した。隣国日本の明治維新や高度経済成長をしのぐほどの急速な成長を遂げ、いまや島の産業の5割は貿易業、3割は情報産業、そして残り2割は観光業となっていたのである。すなわち、島はたった一年足らずで絶望的貧困社会からサービス業中心の社会に変貌してしまったのだ。

 当然ながら、社会の変化はかつての鬼ヶ島討伐隊のメンバーにも影響を与えた。まず、キジ。一年前の祝勝会ではハメを外し、大の字に寝転がって大声でバラードを歌いあげるという失態を犯したキジだが、あれから一年、彼はその持ち前の陽気さのおかげもあってか、島の観光大使となっていた。桃太郎ほどではないにせよ、彼をテレビで見ない日はほとんど無いと言ってもよく、島の外から来た人が彼を見かけると、まず一緒に写真を撮っても良いかお願いしていた。しかも、この手の明るい人にありがちな、人を見下す底意地の悪い態度は微塵もなく、彼は善良な市民そのものであった。後に政治家として活動してほしいと頼む年配の支持者も多い。住まいは島の一等地のタワーマンションの15階で、年収は1500万ルピー。

 その一方で、いかにも冴えない暗いライフを過ごしているのが、間違いなく猿だろう。趣味はネット掲示板にうらみつらみを書き続ける(もちろん自覚なし)くらいしかない、英雄の汚い腰巾着と呼ばれるこの男は、今はITエンジニアとして島の情報産業に貢献している。いま貢献と言ったが、それはあながち盛った訳ではない。なぜなら、ITエンジニアといっても、彼はこのピラミッド型情報産業の最下層に位置する、多重下請け最底辺のエンジニアであり、深夜だろうが休日だろうが残業の概念が消えるほど身を粉にして働く、DXプロジェクトの火消し役だからだ(見なし残業)。朝令暮改とでも言うべきほど雪崩れてくる仕様変更を全て受け止め、一日にトイレに行く回数よりも多い障害に対応し、そのうえ社内の片隅で暇こいているソリティアおじさんに晩酌を付き合わされる日々(割り勘)。住まいは集合住宅の1Kで、年収は250万ルピー(年間休日75日)。

 猿の落ちぶれ方に比べれば、イヌのあれから一年はまだマシな方だろう。とはいえ実のところ、このイヌに関しては特に何も言うべきことはない。確かなのはフリーターである、という点くらいで、どこに住んでいるかも収入がどれくらいかも不明なのだ。そもそもこのイヌだが、島民のうち喋った者が討伐隊を除いて全くいないらしい。正確にはコミュニケーションが取れた試しがない。イヌは「ワン」の二文字を組み合わせてしか情報を伝達できない効率的な動物なのだが、愚かな他の動物たちは彼の言うことが全く理解できず、彼もやがてその二文字すら言わなくなった。先ほどフリーターなのは確実といったが、それは奴がたとえ読み書きができても、口で情報伝達出来ない限りではこの資本主義社会が発達した島において働き口がないと勝手に推測したためである。住まいは不明で、年収も不明。

 最後に、周知の通り紹介はほとんど不要と思われるが、いちおう我らが英雄の輝かしい軌跡も振り返ろう。名前を桃太郎。身長は187cm、噂では愛人が複数名。島の歴史上、千年に一人生まれるか生まれないかの美男子で、その艷やかな白い肌と透き通ったサラサラした髪を見れば、たとえどれだけ男嫌いであっても島の全女性が振り向かずにはいられない男、桃太郎。パリッとした襟の陣羽織に、チャーミングなネイビーブルーのパンツスーツというスタイル。この、いわゆる桃太郎スタイルは、言うまでもなく桃太郎にしか許されておらず、真似をしようものなら島に潜む「桃太郎ガールズ」に写真を撮られてSNSにアップされ、そして炎上待ったなしである。平日の仕事は商社マンで、休日は時々モデルとして活躍。島の全CMに桃太郎が出てきても、誰も反対しないのではないかというのが懸念と呼べる懸念である。住まいは海が見渡せる別荘、年収は3000万ルピー。

 かくいう筆者、このわたくし鬼木鬼蔵も半年前に日本からこの島に取材目的で滞在するようになってからは、この四人の数奇な運命を実に興味深く追いかけるようになった。というのも、一年前は皆ひとつ同じ船に乗り、並んで山を越え、ときには叱り合い、ときには励ましあった戦友たちなのに、その後の一年がこうもかけ離れていると、人生とは随分不思議なものだと感慨深くなってしまうのだ。一人は栄華を極め、一人は誰もが羨む明るい日々を送り、一人は行方不明になり、一人は人(いや、猿)生のどん底にいる。私については、人生にまあまあ満足している一人の記者兼編集者である。それ以外特に言うべきこともない。実際、このユニークな動物たちの記述をするにあたって、私の紹介は最低限に済ませるべきだろう。あまり出しゃばるべきではないのだ。

 さて、どん底の男にとって貴重な休日がやってきたこの日、彼は疲労のあまり忘れているかもしれないが、あの鬼ヶ島遠征から実はちょうど1年が経っていたのである。これを機に、私も本業の仕事を進めるべく、今日この日にかつての戦友4人を集めたインタビューを行おうと企画していた。もちろん、キジと桃太郎のスケジュールを調整するのは大変だったが、やはり思い入れの深い遠征だったのは間違いないらしく、桃太郎は先着の依頼を断ってまで来ると返事してくれた。猿には職場にお邪魔して案内状を手渡し、行方不明のイヌには役所に可能であればこれを渡してほしいと告げた。来ても来なくても変わらないかもしれないが、体裁を整えるためにもやはり4人いたほうが良い。

 待ち合わせ場所は、祝勝パーティーを行った広場の向かいの貸し切り宴会場。粋なことに去年同様にハイビスカスが飾り並べられている。そうこうしているうちに、パーティ会場の前でうろうろ様子を観察しながら、そわそわ緊張してくると電話が鳴った。猿からだった。

「よう鬼木さん」猿はいつになくしゃがれ声だ。

「これはこれはお猿さん、いつもお世話になっております。鬼木です。いったいどうかされました?」

「あのさあ、今日って確かさ、あれだよな、あれ」

「ええ、と、言いますと…」

「あれ、(ハァ…)あれだよ、おれら四人集まるんだっけ?」ちょっとイライラ気味に彼は語尾を上げて言った。ため息から察するに、露骨に行きたくなさそうだ。

「はい、皆様に先日お渡しした案内状の通り、宴会場でお待ちしております」

「…」

「どうかされました?」

「…あれ、何すんだっけ、今日。おれら集まって何すんの」

「皆様に、今から振り返ってこそ見えてくる、去年の鬼ヶ島遠征について語っていただこうと…」少し意外で慌てた私はなんとか言葉を継いだ。「それに別にお仕事関係なくあの英雄たちが久しぶりに盃を交わす様子には非常に期待が高まっておりまして…」

「チッ、どうせ…」

「どうかされました?」さっきと同じ調子で私は尋ねた。

「どうせ…期待って言ったって、桃太郎への期待100%だろ、いや99%で残り1%はキジか。おれさあ、あんときは頭が長時間労働で溶けてたから行くって言ったけど、ねえ、今日やっぱ行かないとダメっすかね?」

「席もご用意しておりますし…」

「いやそれだけならさぁ」猿はまたため息をついた。「別になぁ」

「それに、あの遠征についてまだ語られてないこともあるかと思いまして」

「いや、それはもうあの英雄様がたっぷり語ってくれたじゃないですか。みーんな、蝿みたいにあいつに群がってマイク向けてパシャパシャしちゃってさ、おれなんてマジで一回もインタビューされてないんすけどさぁ」

「そうでしたか…ですから、今回は良い機会だと思っているのです。ほら、私はこの島の人ではありませんし、職業柄、いろんな人の意見を公平に聞くのはいささか得意だと自負しております。今日は…」と、そこまで言ったところで猿が受話器を耳から離して嫌そうな顔をしているのが想像できた。「…今日は誰かの言葉を優先して他をないがしろにすることはございません」

「いやもう聞き飽きたんよ、それ、ハァ、もうちょっと察してくださいよ…」

「でも私は…!」と、ここまで来たところで電話が切れた。

 腕時計を見た。まだ開始の時間まで5時間ある。猿の自宅は一応知っているので、しばらくして電話をかけて、もし繋がらなかったら、彼の家を訪ねるのも最後の手段として可能性はあるかもな、と思った。が、実際に想像してみると、そこまでしてモチベーションの低い猿を引っ張り出すのは彼に悪い気がした。今日くらいはせめて休ませてもあげるべきだと私の良心が訴えていた。それにキジのことも、桃太郎のことも、イヌのこともある。とりあえず下手に動かず私はここで待機しているのが良さそうだという結論に至り、いったん宴会場の近くの蕎麦屋に入った。

 

 

 16時50分、約束の10分前になると、驚いたことに猿が宴会場に姿を現した。グレーのしわしわジャケットを着て、タバコを齧ったままポケットに手を突っ込んでいる。まるで西部劇に出てくるベテラン刑事のような雰囲気だ。

 既に座敷の奥にはキジ、桃太郎、そしてなぜか桃太郎のお爺さんとお婆さんも来ていた。どうやらキジは桃太郎の祖父母と面識があったらしく、猿が異様な雰囲気で来る前は軽い雑談で場も和やかに盛り上がっていた。久しぶりに見た桃太郎も、美の極致のような顔で笑うのだから、男の私もついついまるで美術品を見るように目線がいってしまうのであった。

 猿が現れたのは、まさにそんな「しばしのご歓談」の時間だった。とはいえ、キジも猿の登場には純粋に喜んでいそうで、腹黒い笑顔にあるような翳りがどこにもなかった。いつ見ても快晴の空のように笑うキジにはとても好感が持てた。

「猿!久しぶりじゃないか!元気にしてた?」

「…」猿が靴を脱いで座敷に上がってくる。

「ほら、さあさあ座って座って…何から飲む? って鬼木さん、まだ始めちゃマズイんでしたっけ!」と高らかに笑うキジ。

「いえいえ、リラックスしてお話いただきたいので、もう皆さんのタイミングにお任せいたしますよ」

「じゃあ、飲みますか! 桃太郎、どれにする?」

「僕はジントニックで」爽やかな声だ。

「猿は?」

「……おれは生でいい」

「オッケー!すみません、生2つと、ジントニック1つ、あ、鬼木さんどうします?」

「私も生ビールでお願いします」

「やっぱ生3つで、あと日本酒、はい、はい、お願いしまーす!」と、歯切れよく言い、キジがドリンクメニューを元の場所に置いた。

「…おまえ、相変わらず元気だな」猿がキジの顔を見て言った。電話した時よりもドスの利いた声だった。が、別に睨んでいるわけでもなさそうだった。

「あはは!いやーそんなことないよ!今日は元気ってだけ!うん、だって皆一年ぶりにこうして集まれたんだからさ!」

「チッ、全く」

「猿はー、まあ変わったと言えば変わったように見えるし…でも変わってないようにも…」キジがぱっちり目を開けて、猿をじろじろ見た。「どう思う、桃太郎?」

「猿、久しぶり」桃太郎は言葉の一つ一つがスッキリしている。

「あはは!やっぱ桃太郎は桃太郎だ!」

「チッ」

 生ビールが3つ来た。汚いものにでも触れるように猿がすっと手をのばして自分のグラスを素早く取って寄せた。それを見たキジがまた笑った。

「チッ!」

 そして、ジントニックと日本酒が2合2杯で来たので、キジが即興で見事な挨拶をして乾杯した。猿は俯いたままグラスを握って乾杯に参加しなかったが、キジや祖父母、それに私が猿のグラスに優しくグラスをぶつけると、顔を上げた。いかにも不快な表情だった。

「いやあ、ホント懐かしいねぇ!」

「そうじゃなぁ、そうじゃなぁ!」お爺さんがキジの隣で盛り上がっている。「ほんと、太郎を鬼ヶ島に送ったのが昨日のことのようじゃい!」

「お爺さん、あのときは桃太郎にほーんとお世話になりました!」

「いやいや、こちらこそじゃよ!うちの太郎がねぇ!皆さんのおかげじゃ、なあクミコ!」

「あんた、その名前で呼ぶのは恥ずかしいんだっちゃ!」お婆さんことクミコさんが照れながらお爺さんの背中を叩いた。「みんな本当にいい子じゃったわなぁ、わたしの作ったきび団子も美味しそうに食べてたって太郎が言ってましたんに!」

「あれはもう絶品ですよ!」キジが叫んだ。

「あらもうホント良い子ねぇ!今日も作って持ってくればよかったわぁ」

「…チッ、何が…」猿がぼそっと言った。が、皆会話に夢中で聞いてなかった。

「ねえ、太郎さん、あなたも黙ってないで今日くらいゆるんだらどーう?」

 桃太郎がジントニックから口を離した。所作の一つ一つが無駄なく美しい。

「おばあさん」桃太郎がクミコさんの方を向いて言った。「あれは本当に美味しかったですよ」

「きゃーーー!♡」

「ばあさん!まだ春の名残があったんかい!わしゃ、わしゃ嬉しいぞ!」

「だって、太郎さんが、太郎さんが…きゃー!♡」

「カーハッハッハ!!」お爺さんも元気そうで何よりである。

「いんやあ〜、良いご夫婦ですなぁ」キジが満面の笑みで二人を見た。もう笑顔いっぱいだ。

「もうねぇ、この人ったら、ジロさん、もう若い頃なんてもっとすごかったのよ!」

「ばあさん!よさんか!」そう言うと、ジロさんことお爺さんは笑い転げてしまった。そしてなんと、クミコさんもジロさんにくっつくように笑い転がり、じゃれあう二人の世界ができつつあった。が、桃太郎は桃太郎のペースを保っており、キジは二人の世界に合いの手を入れており、猿は猿で相変わらず沈黙してちびちびビールを飲んでいた。

 想像以上に盛り上がっているし、まだ時間はたっぷりあるので、これはこれで予定とは違うけど良いか、と私はニコニコと様子を見守っていたが、ジロさんが笑いすぎてひいひい言いながらトイレに行き、帰ってきたところでなんとなく空気の温まり具合がちょうど良さそうに感じられたので、一声かけてみた。

「さて、みなさん、本当に今日は盛り上がっているところ失礼いたしますが…」

「し、し、失礼だなんて、鬼木さんお酒もっとお飲みなさいっちゃ!」クミコさんは変なスイッチが入ったようだ。すかさずキジがもう一杯頼んだ。

「いえいえ、とんでもございません、ありがとうございます。それで、今日はですね、あの伝説の鬼ヶ島遠征からちょうど一年、ということでですね、今だからこそ振り返って見えるものを語っていただきたいと思うのですが、どうでしょう」と、私はちょっと早く切り出しすぎたかと思ったが続けた。「キジさん、一年前のあの時を振り返っていかがでしょうか?」

「ヒュー!ヒュー!」愉快な祖父母が囃し立てる。

「アハハ!まず僕からか、そうだねぇ」キジはまるで遠い過去に思いを馳せるように目線を少し上に向けた。「懐かしいよ、本当に。全てが懐かしくて一つ一つの、あのときの光景が今でも鮮明に思い浮かぶくらいさ。そうだなぁ、ボクはね、鬼ヶ島を見つけた時のあの興奮が今でもくっきり再現できるね。この話聞いたことあるかい、鬼木さん?」

「いえ、ないです」ちょうど頼んでいたビールが鬼木のところに来た。

「アハ!そうですか、いやぁ、ボクたちさ、知ってると思うけど船で鬼ヶ島向かったんだけどね、途中まで島らしきもの何も見えなかったんだよ。正直もうダメかなって思ったときもあったんだ。イヌとかすんごくワンワン鳴いててね。このまま海の上で終わりかって思ったんだけど、そのとき桃太郎の様子を見たら、なにか祈っているようでね、ボクはそれ見て確信したんだ。この人がいま恐れていないなら絶対にボクらは鬼ヶ島に行けるって。神に愛された桃太郎が祈ってるなら大丈夫だって。で、信じたとおりね、遠い空に黒い雲が見えたときに、桃太郎が目を開けると、その雲が晴れたんだ。で、ボクが一足先に飛んで様子を見に行くと、そこが鬼ヶ島だったわけ…! あれがボクは一番感動したなぁってごめんごめん、喋り過ぎかな?」

「いえいえ、多ければ多いほど助かります。」私は皆を見て言った。「というのも、今回の取材内容はですね、『桃太郎』という本にして一冊まとめようかと思っておりますので…まだタイトルは仮ですが…」

「鬼木さん、それホントだっちゃ?!」

「はい、クミコさん。もしよければクミコさんとジロさんのお話もお聞きしたいです…!」

「きゃー!どうしましょ!どうしましょ!ジロさん!」

「カーハッハッハ!そうじゃなぁ、わしらが話せるのは、まあこの島のもんなら、みーんな知ってる桃太郎の生い立ちじゃ。鬼木さん、桃太郎がどんなふうに生まれたかご存知ですか?」

「い、いえ…」私は質問がちょっと変なので答えに窮した。

「それは語りがいがあるってもんじゃい!実はな、ここにおわす桃太郎、なんと(クミコさんもここで一緒に声を合わせた)川から流れてきた桃からパックリ出てきて生まれたんじゃよ(だっちゃ)!」

「え!ええ!それ、本当ですか!」

「本当ですよ、鬼木さん」桃太郎が無機質な声で鋭く言った。「僕は桃から生まれたんです。」

「し、信じられないです…」

「チッ!!」

 聞くところによると、お爺さんが山に芝刈りに、お婆さんが川で洗濯しに出かけたあの文明なき16年前の島に、輝く桃が川を滑って流れてきたらしいのである。そして、その桃を家に持ち帰ってしばらく眺めていると、突然パックリ割れて桃太郎が出てきた、とのことだった。

 鬼木には全く信じられないおとぎ話の世界だった。

「あ、ありがとうございます。それも、『桃太郎』にぜひ書きます。いや、それは絶対に書かせていただきたいネタです!」

「そうじゃろ、そうじゃろ!」

「ボクもそれ聞いた時、びっくりしたんだよ!」

「わんわん!!わん!わわんわん!」

「なんだ!」全員がこの鳴き声のする方に一斉に振り向いた。なんと、そこには二足歩行のイヌがいつの間にか座敷に上がってきていた。「い、いったいいつの間に!」

「わわん!わん!」

「イヌ、今までどこにいたんだよ!ホントに心配したんだよ!!」キジが感動の再会とでも言うべきセリフを涙ぐんで言い、イヌを抱きしめた。祖父母もあまりのことに感極まっていた。

「わん!わん!」

「どうしたんだい、イヌ? え? わかった」涙で顔が腫れたキジが鬼木の方を見た。「鬼木さん、イヌも語りたいことがあるそうです」

「けれども…」

「大丈夫です。ボクが同時通訳しますから。あ、桃太郎、笑ってるね。君もわかるんだから、ちょっとは手伝ってよ、アハハ!」

「わん!」

「ええと…」

「わん!わんわわん、わんわんわ!わんわんわんわんわわん!わん!わん!わ!わんわんわん!わんわんんわ!わん!わんわんわん!わわん!わん!わんわん!…わんわわんわわんわんわ!わん!」

 キジが同時通訳してくれた。

「以上のようです、鬼木さん」

「ありがとうございます。きび団子、そんなに美味しかったんですね…!これも書かせてください!」

「うれしいわぁ!イヌさん!ほうらお膝においで!」クミコさんが膝をぽんぽん叩いてイヌを呼び寄せた。それを見たジロさんが笑い、さらに日本酒を5合追加で頼んだ。

「みなさん、そういえばまだ食事を頼んでなかったですね。あの、ぜひご自由にお好きなタイミングで注文していただいて結構ですよ」

「あらぁ」おばあさんの、やたら色気のある声だった。「いいのぉ?じゃあ遠慮なく頼むだっちゃよ!」

「猿、なんか食べたいのある?」キジがこれまで蚊帳の外だった猿に声をかけた。

「…」

「ねえ、見てこのお店!きび団子あるじゃない!ほら!」おばあさんがジロさんにぐいぐいと寄ってメニューを見せた。イヌが膝から離れた。

「鬼ヶ島討伐記念きび団子ですって!頼んじゃいましょ、これも!」

「ようし、今日は景気が最高じゃ!」

「わん…」ふとイヌがそう言ったとき、桃太郎の顔が一瞬だけ、ほんの一瞬だけ歪んだように見えた。

「で、猿は何食べる?」

「…茶番はもういいだろ」

「え?」

「だから、もう茶番はいいだろ!!てめえらみんな嘘ばっかつきやがって!!」

「ど、どうしたの猿?え?」キジがあからさまに慌てた様子だった。一瞬にして、これまでヒートアップしていた空気が氷点下まで落ちて凍りついた。

「鬼木さんよぉ」猿が言った。「あんた、ホントにさっきの桃から生まれた話を信じてるのか?」

「え、ええ、もちろん、だって皆さんそう仰るのですから…」

「あんた、記者のくせに常識ってのがねえのかよ!んなわけあるか!」

「え、え、ええと…」鬼木は祖父母の方を見た。すると二人共、きちんと正座して、これまでの笑顔をすべて燃やし尽くすような地獄の形相をしていた。まるで運慶と快慶のようである。

「なんでおれがここに来たか、わかるか鬼木さん?」猿がビールのグラスを握りながら言った。その手はかすかに震えていた。

「それは…」

「あんたが公平かどうか、賭けてみたくなったんだ」

「さ、猿、もうやめよう、ね…」

「黙ってろ!この太鼓持ちのキジ!」

「ボ、ボクはどうなっても知らないからね…」

「いいさ、別にもうクソくらえだ…!」猿が鬼木を見た。「なぁ鬼木さん、あんたどうやって子どもが生まれるかわかるか?いや、これは聞く相手を間違えたか。おい、英雄桃太郎さんよぉ、おめえ、いったいどうやって生まれたんだっけ?ああん?」

 沈黙。

「…猿、覚悟は出来ているんだな。」しばらくして桃太郎が厳しい剣幕で言った。鬼木には全く意味の分からない言葉だった。

「失礼なこと言うようじゃが、そこの猿さん」お爺さんが口を挟んだ。「あんた、女の子と付きおうたことはあるのか?え?」

「チッ、こんな場面でマウンティングかよ…」

「え?わしゃ聞いているんだが、答えてくれんか、お猿さん」

「…」

「やはりな」お爺さんがお婆さんと顔を合わせた。「こいつぁ、女の子ことがちっとも分かっとらんからこういう暴挙に出てしまう、哀れじゃけん、のう婆さん」

「お爺さんの昔に比べたら…」お婆さんが昔を思い出して少し笑いが溢れているようだった。「ほんと、お爺さんの昔の男っぷりに比べたら…」そこで、二人共また笑い転げてしまった。もう収拾がつかなかった。

「なあ鬼木さん」猿が笑いに負けじと耐えて続けた。「こいつの一番好きな果物ってわかります?」

「え、桃ですか?」

「それ、一番キライな果物なんですよ」

「猿」桃太郎が刺すように言った。

「あと、こいつの嫌いな食べ物、まだあるんすよ、まあ、この前匿名掲示板にも書いたら誰も信じてくれなかったけどね」

「わん!わん!」

「そ、それは…」鬼木はつばを飲んだ。

「きび団子」

「猿!」その瞬間、桃太郎がすっくと勢いよく立ち上がった。そして、腰に下げていた刀に手をかけた。「貴様…覚悟ができていると見ていいんだな」

「え?え?」

「太郎、致し方ありません。場合によっては鬼木さんも」

「そのつもりです、婆さん。」

「わりいな、鬼木さん」猿が言った。「巻き込むつもりはなかったんだけどな…でもあんたの公平性にかけたらこれだ…」

「それで最後か?」桃太郎が氷柱のような視線を猿に刺した。

「えっと…」鬼木には全く何がなんだかわからなかった。キジはずっと俯いている。さっき笑い転げていた祖父母も今はまた地獄の形相になって桃太郎をじっと見ている。イヌは鳴いている。猿は…なにか覚悟を決めたようにその場に座っていた。

 桃太郎が刀の柄に手をかけた。そのとき、鬼木はこれは抜刀術の構えだと悟った。でもいったいなぜ?なんのために?誰を切る?まさか猿?いや、さっき場合によっては私もと言っていた。まさか…

 白銀の刃が抜かれようとするまさにその時、携帯電話の着信音が鳴った。その場にいた誰もが凍りついた。音の発生源は桃太郎のネイビーブルーのパンツスーツのポケットからだった。

「もしもし、すまない。あとにしてくれ。ああ、すまない。早く済ませるから。今は少し待ってくれないか。悪いが。頼む、ああ。切るよ。」

 電話が切れた。

「しょうもない命だが、ひとときは命拾いしたもんだ、神様、意外と見てくれてるんだなぁ」猿が独り言のように言った。そして、桃太郎を睨んだ。

「鬼木さんは関係ないぜ」

「…」

「桃太郎、鬼ヶ島で約束しただろ、あれはおれたち四人のみの約束だ」

「…ならば」桃太郎が抜刀術の構えのまま、大きく息を吸った。「ならば、鬼木さん。誓ってください。あなたが編集される『桃太郎』には、猿の言葉は一切入れないと」

「鬼木さん、この条件、飲んでくれ」

「は、はい」

「もう一つ、今日猿から聞いたことは決して他には漏らさないと」

「はい、は、はい」

「いいでしょう…」桃太郎が目を閉じた。「猿、約束を破ったのですから覚悟は出来ているんですね」

「いつでもいいぜ、ただ周りを切らないようにな」

「あの鬼ヶ島討伐に嘘偽りはなかったはずだ…」

「いや、お前が最後に全部嘘にしちまったんだよ、桃太郎…お前が、全部真実を嘘にひっくり返しちまったんだ…」猿も目を閉じた。「鬼木さん、約束は破らないでくれよ」

 桃太郎の右足に力が込められる。腰がゆっくり落ちて膝が弧を描いて曲がり、流れるように半身の姿勢が傾いていく。美しい剣技の構えだと鬼木は思った。この男は見た目だけでなく技術もまた一級品なのかもしれないと思った。そう思っているうちに桃太郎の刀の持ち手から、ギリッという強く握りしめる音が聞こえた。一体なんてことに巻き込まれたんだと鬼木はそれでようやく我に返った。が、それも遅すぎた…。

 そして剣が抜かれて猿が切られようとするその瞬間、刃が切り裂くほんのかすかな手前で、宴会場に人が一気になだれ込んできた。見ると、全員女性だった。それを見た桃太郎は一瞬で刀を鞘に収めた。まばたきしていたら見逃すような電光石火の技だった。

「桃太郎ー!♡」

「きゃー!桃太郎様ー!♡」

 なんと入ってきたのは、「桃太郎ガールズ」だった。

「おやおや、さっき電話で言ったでしょう」桃太郎がにこやかな笑顔で言った。

「だって待てなかったんだもん!ねー!」

「ねー!」

「ハハ…ハハハ…」猿はぐったりと力が抜けてしまったようだった。それはイヌも、キジも同様だった。「ハハ…」

「じゃあ、婆さん、わしらはこのへんでおいとま頂こうかねぇ」お爺さんが苦々しさを押し殺して言った。

「ええ、ええ。今日は鬼木さんどうもありがとうございました。おおきに」

 そう言って、二人がゆっくりと宴会場から出ていった。その間も桃太郎ガールズは桃太郎の周りにべったりはべっていた。

「桃太郎様、どうしてこんな方たちと一緒にいるの?今日は私達と一緒に遊ぶ予定でしょ?もうずぅーっと前から決まってたのにひどい!」

「ごめんなさいね。どうしてもこの予定は大事でして」

「でも全然盛り上がってないじゃない!」ガールズの一人が猿を睨んで言った。「なんかキジさん以外だーれも見たこと無いし、もう、桃太郎様に近寄らないで!」

「これはみんな友人ですよ」桃太郎が涼しげに言った。

「ふうん、…ふん、あんたたち、桃太郎様に感謝なさい!さ、桃太郎様、行きましょ、行きましょ、私達もうシフォンケーキも焼いて準備万端なんだから!」

 桃太郎の腕が女の子たちに引っ張られている。その様子を残った4名の者はただ呆然として見ていた。あれだけ陽気で明るかったキジも、今では魂が抜けたようになり、表情もごっそり落ちていた。イヌは震えていた。

 桃太郎が出ていく直前、鬼木はやはり彼に向かって言うべきだと決意した。

「桃太郎、もし、もしあなたが今日のことをもう一度繰り返すようでしたら、私、鬼木鬼蔵は、あなたの正体を日本本国にお伝えします。『桃太郎』の内容も猿の証言に従って書き換えます。私はすぐにでも原稿を作りますし、一応この島にいる他の知り合いにも万が一のために渡します。あなたはたぶん平日は忙しいでしょうから遅くならないと私には手出しできないはずです。」私も震えていた。なぜならこのとき桃太郎があの祖父母と全く同じ、炎むき出しの眼で睨んでいたからだ。「それに…それに桃太郎ガールズの中にも私の知り合いはいます。もし私やここにいる三匹の動物に何かあれば必ず彼女があなたの正体を暴露します。いいですか、桃太郎、これは取引です。もしも…」

 そう言いかけたところで、桃太郎の表情が潮が引くようにすっと戻った。ジントニックを飲んでいたときのように滑らかな笑顔をしていた。

「鬼木さん、わかりました。いいでしょう。ただし、今日のことは忘れましょう。ですので、『桃太郎』は私がお伝えしたように出版してください。もちろん、お爺さん、お婆さんのお話も盛り込んでください。もし私がいつか今日のことで何か仕掛けてきたら、いいでしょう、もうひとりの私についての話に差し替えて下さって結構です。」

「わかりました。いいですね、皆さん?」鬼木は三匹の動物たちと目を合わせた。皆、力なく頷いた。

「『桃太郎』が、どんな物語として将来語り継がれるか、楽しみです。」

 勝ち誇るように笑ってそう言い残し、桃太郎は去っていった。鬼木にはあの地獄の形相といい、炎の眼といい、いまの後姿といい、彼の裏には鬼が潜んでいると感じられた。鬼退治で封じ込めたのは、もうひとりの鬼としての彼だったのではないか…。だとしたら、あの祖父母も正体は鬼だったのではないか…。

 もしも今、世の中に広まっている『桃太郎』が、「お爺さんが山で芝刈りに、お婆さんが川で洗濯に…」というストーリーであったとしたら、きっとキジも、イヌも、猿も、あれから無事平穏に生きて暮らしていったということである。時が流れてしまった今では、当時の命をかけたやり取りがあったことも一般には知られず、桃太郎はきっと絵本の中で無邪気に笑い、今日も子どもたちを楽しませているのでしょう。彼の裏に潜む鬼が隠し覆われたまま。

 

 

 

 

 

 

愛の祝福 −『輪るピングドラム』感想

※アニメ原作、映画のネタバレ含みます!!!

 

はじめに

 2022年夏、『輪るピングドラム』アニメ放映から10周年を記念して劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』が公開された。話の大まかな骨格は11年前のアニメ同様であったが、随所に新しく追加された場面が顔をのぞかせたり、ほんの僅かにセリフが追加されていたりと、初めて見る方はもちろん、これまでのファンもリメイクとして満足できる内容だった。筆者は本作を友人に紹介されて以来、切実なリアルと斬新なファンタジーを融合させた世界観に魅了され、今日に至るまで何かしら文学作品を読んだり、アニメを観たりするするときには、頭の片隅でこの作品との影響の相互関係を考えることがしばしばあるくらいだから、今も勢い余って感動しているのは否めない。とはいえそれも承知で、現代ならではの人間の苦悩や愛のかたちを直感的に伝える素晴らしい作品であるのは間違い無いと思う。

 そんな傑作『輪るピングドラム』(以下、ピンドラ、と略す)だが、その内容を語る上で難しいと感じられるのは、非常に多くのモチーフが多様な形で絡み合っている点である。1995年の地下鉄サリン事件から、家庭内暴力、「家族」の在り方、リンゴのメタファー、運命、罪と罰の救済、「子どもブロイラー」、宮沢賢治銀河鉄道の夜』、村上春樹『かえるくん、東京を救う』、などなど...。もちろん全てのモチーフを掬い上げて俎上に載せるのは筆者の力量から程遠い試みであるため、ここでは作品の中枢に位置づけられている「愛」に焦点を当ててみたい。かなり突飛な展開になるかもしれないが、一人のファンの少し長めの感想程度に受け取ってくれればと思っている。

 では前置きはこのくらいにして、早速本題に入っていく。

 さて、ピンドラで使われる「愛」という言葉は、一般にわたし達がイメージするような「恋愛」の「愛」とは少し違った形で表現されている。もちろん、「恋」から「愛」へ、といった名言めいたもの(?)もあるし、そこでの「愛」とも重なる部分はあるとは思うが、必ずしも一致はしていない。特殊な意味を表しているとは思わないが、訴えかけている意味が普遍的であるゆえに、逆に見にくくなっている印象を受ける。それでは、ピンドラにおける「愛」に託されているのは、一体どんな内容であろうか。

 この問いを考える上で重要なモチーフは、本作の中心的なシンボルの一つである「リンゴ」だ。ここではリンゴの描かれ方について二点ほど挙げて考えてみたい。まずは、①運命を乗り換える神秘的力を持った姉桃果の妹である荻野目苹果。それから、②小さな檻の中に閉じ込められた幼き冠葉が、同じく閉じ込められた晶馬に分け与えた果実としてのリンゴ。

 いずれもクライマックスで「愛」の円環運動に参加するのだが、その前に一つ一つ整理してみよう。

 

だから…わたしのために生きてほしい

 まずは荻野目苹果。先述したように、彼女は運命を乗り換える力を有する姉、桃果の妹である。姉の桃果は、運命日記というピンク色の日記を持っており、からだの一部に傷を負うことを代償にして、「運命」を変える―つまり、世界の風景そのものを変えることができる少女だった。一つの直線のように捉えられていた世界線を、まるで電車を乗り換えるように、別の世界線に変えることができるため、その力を以て父に虐待されていた時籠ゆりや、母に愛されず「子どもブロイラー」に送られた多蕗桂樹を救ってきた。しかし、95年の地下鉄事件で命を落としてしまう...。そんなある種の伝説とも言えるような少女の妹が、荻野目苹果だ。

 荻野目苹果は、登場したての頃は恋に取り憑かれた少女として少々エロチックに描かれていた。もともと彼女は桃果の残した運命日記に従って、多蕗と結婚するのが自分の「運命」だと信じていた。その信念を強固に内面化したため、多蕗に接近するためなら大胆な行動も厭わない恋の乙女だったのだが、物語中盤、車に轢かれそうになったところを晶馬に助けてもらったのをきっかけに、徐々に自分が晶馬に惹かれているのだと思うようになる。もちろん、突然その事件から急旋回して晶馬を意識するようになったのではなく、出会った頃から少しずつ惹かれていたのではあるが。とにかく、晶馬に対する自分の想いに気がついたことで、彼女には単線的「運命」からの解放が予感されていた。すなわち、それまで桃果の代わりとして生きようとしていた彼女が初めて「荻野目苹果」として生き始めた、ということである。

 「桃果」から「苹果」になった荻野目苹果。注目すべきなのは、彼女が「運命」から解放される一歩を踏み出した時、多蕗に恋したように晶馬に恋したわけではなかった、ということだ。むしろ彼女が獲得しつつあったのは、晶馬に対する「愛」である。ここで強調したいのは、最終的に荻野目苹果は「愛」を獲得したからこそ「運命」から解き放たれた点だ。とすると、彼女が最後に「運命」から解き放たれるまでの過程はどんなものだったか。

 まず、建設中のビルで多蕗との決着がついた後のシーン。一足遅く間に合わなかった晶馬は傷ついた冠葉と陽毬の元に駆けつける。陽毬が命の危機にあったのに何もできず、悲しみと落胆が混じっていた晶馬だったが、閉じ込められて出てきた苹果が彼の背中にそっと寄り添う。「だから…わたしのために生きてほしい」。彼女はこの出来事の前に、晶馬に「君は僕たちを許さない」と言われ一方的に悲しくも別れてしまったが、そのときも既に苹果は本心から晶馬を「赦し」ていた。建設ビルに夜が訪れた今も、傷ついた三人に優しく身を預けて、再び苹果は晶馬に「赦し」を告げている。事件の被害者だった彼女にとって、痛みを伴わずに赦すことはできなかったに違いない。しかし、彼女はその痛みを受け入れて「愛」に昇華させ、晶馬を赦すのだ。そして、ここで彼女が与えた「愛」は、物語のクライマックスで晶馬から返ってくることになる。

 そのクライマックスシーン。「運命の果実を一緒に食べよう」と自らの身を大きく広げて差し出し、運命を乗り換えようとした代償に、彼女は激しい業火に包まれてしまう。晶馬のために全てをなげうって、その罰を彼の代わりに受けようとした代償の炎。だが、晶馬は炎に焼かれる彼女を抱きとめる。「これは...僕たちの罰だから。…ありがとう、愛してる」。そう最後に優しく告げて、彼女を焼き尽くそうとしていた炎をすべて引き受け、苹果の手を残して、一瞬の風が去るようにふっと「この」世界から業火もろとも消えてしまう。最後の言葉「愛してる」は、苹果が彼に渡した「愛」を彼が自分の存在すべてをかけて返した、最大級のリターンであり、「わたしのために生きてほしい」という彼女の願いへの彼なりの答えだった。彼女のために生きるべく、彼は彼女を死なせないために、すなわち彼女を生かすために、彼はその命をつかった。「愛」を原動力に、彼女の生を世界で存在をかけて肯定すること。それが彼にとって彼女のために生きることであり、もっと言えば、あのクライマックスの瞬間こそ「愛」によって結実された彼の「生」が「君たちは何も残せない」という眞悧の虚無を打ち倒したのだった。話が絡まってきたが、「彼女のために生きる」べく命をつかって彼女を「生かす」ということ。その命をつかった瞬間を、晶馬の死による生の終わりだと単純には言えない…、むしろ苹果の生の再生=「始まり」だというニュアンスが最後のシーンには込められている。

 ちなみにアニメ原作では、苹果は晶馬が世界から去る瞬間に手を伸ばして、彼の手を掴もうとしていたが、今回の劇場版ではなんと手を伸ばした苹果がある言葉を消えゆく晶馬に全力で届けようとしていた。泣いた。個人的にはここの演出が本当に素晴らしかった。ありがとう。

 閑話休題。さて、ここまで来てピンドラにおける「愛」の輪郭が少しずつ明らかになってきたと思う。それは、全存在をかけて相手を想い抱きとめること…。己の全てをささげて相手に生を与えること…。共に生きることを揺るぎなく肯定し、手を差し伸べること…。こう捉えると、桃果は「愛」の模範的存在だった。

 存在をかけた愛の肯定性が、世界を滅ぼす否定性に克ち、単線的「運命」=「世界」を書き換える。「運命」に翻弄された子どもたちは、「愛」の力で「この世界」を変えることができる。存在の根底には「愛」があり、「愛」なき「世界」では存在を全うできない(=「透明」になる)。このあたりについては後に続く箇所で語れる分だけ語りたい。いったん、荻野目苹果が「愛」を獲得し、その肯定性により「運命」から解放されたことを確認したうえで、リンゴの描かれ方をもう一つ見ていく。

 

「愛」に基づく存在の贈与

 わたしたちの生は外から与えられた一定の条件によって形作られているため、完全な「自由」を享受することはできない。明文化されたルールと暗黙のルールでできた鉄格子。すべての人間は平等だと謳ってはいても、隣のあの人と自分が平等とは思えないし、常に公平な措置がなされるわけでもない。生まれた時に、その人生がたどる運命を決定づけられているような気さえすることもある。世界は公正であるはずなのに、誰もがそう高らかに謳い上げているのに、実際はむしろ真逆で世界は方便だらけだ。そんな世界はおかしい。誰もが幸福であるべきなのに、人々に息苦しさを強要して見過ごす世界はおかしい。だからテロで破壊して「虚無」にしてしまえばいい…。

 眞悧が世界を憎み、テロという最悪の暴力的手段に至る理由はおそらく上記のようなものだと思われる。彼が頻繁に使う、「箱」という言葉はまさしく不自由で不平等で不公平で理不尽な世界を表したものであろう。「箱の中にいる君たちは絶対に幸せになれない」、と彼は強調する。彼にとって「箱」とは限界の定められた不自由な世界そのものであり、テロで破壊すべき対象なのだ。

 そんな意味として用いられている「箱」だが、抽象的なメタファーだけでなく作中で明らかに物理的な「箱」が登場する重要なシーンがある。それは、幼い冠葉と晶馬が、箱型の小さな檻に閉じ込められてしまっているシーンだ。二人はいつからそこに閉じ込められているのか分からない。だが、食事も一切与えられず、飢えたままやがて死にゆくことが二人には分かっている。徐々に衰弱し、明日を迎えられるかも危うい状態に置かれた冠葉と晶馬。そしてもう命尽きるかと思われたその時、一つの奇跡が起こる。

 リンゴ。そう、冠葉のいた檻の闇の奥に一つのリンゴがあったのだ。突然現れたリンゴを見て喜び、冠葉は晶馬の檻にもあるはずだと言う。だが、晶馬のところにはない。選ばれたのは冠葉で、晶馬は選ばれなかった。そう晶馬は言う。しかしそのとき、冠葉は生を諦めた晶馬に向けて檻から手を差し伸ばす。その手には、半分に分けられたリンゴがあった…。

 選択が行使される場合、「選ばれる者」と「選ばれない者」が区別されることになる。また、選択の根拠は恣意的である。誰が選ばれるか、選ばれないかは公正な基準に則って決められる訳ではない。選ばれた者は運命を肯定的に捉え、選ばれない者は運命を悲観的に捉える。人間の意志ではどうにもならない選択の恣意性が世界を覆うなら、選ばれない者の中にはそんな世界に意味を見いだせず破壊し、世界を「作り変え」てしまえばいいという結論に至るだろう。

 その圧倒的な理不尽さを克服する手段が、「愛」を分け与えることだった。檻の中で衰弱していた二人にとって、突如出現したリンゴは、彼らの命を繋ぐものだった。その一部を分け与えることは、己の命の一部を分け与えることとほぼ同義である。だが、冠葉は半分を晶馬に分け与えた。命をかけた、自らの存在をかけた贈与である。この贈与の根底には、もちろん先程まで述べてきた「愛」がある。冠葉の贈与は、そこに込められた「愛」によって晶馬の存在を成立させた。理不尽さによって損なわれそうになった存在を「愛」が繋ぎ止めたのだ。つまり、恣意的な選択=「運命」を克服する手段は、「愛」に基づく存在の贈与だったのである。

 「愛」に基づく存在の贈与。肉体的なレベルで具体化すれば、これは愛しあう男女がセックスして互いの精子卵子を与えることに近いかもしれない。もっとも、その贈与の結果生まれた子どもは、偶然の存在として、つまり自らの意志とは関係なく世界に放り出されるわけではあるが。

 子は親を選べない。もちろん親も子を選べないが、子の場合はその生の条件が親の育む環境によって規定されるため、親よりも自由度が低いだろう。子にとっては、生そのものが恣意的な結果なのだ。不自由で不平等で不公平で理不尽な世界に生まれ落とされるかもしれない。だからこそ、愛が一回限りのものであれば存在は持続しえない。子の存在が損なわれないためにも、「親」は肉体的な贈与のレベルから引き上げて、その子に根源的な「愛」を与えないといけない。それが、理不尽な世界に落とされた存在を生かす、残された手段であるように思われる。

 もちろんこれは、産んだ親は行為の責任を全うすべき、といった話では決して無い。また、家族とは「産んだ」親と「産まれた」子のみによって構成されることを前提としている話でもない。むしろ逆である。生の誕生は確かに恣意的であるかもしれないし、一回きりの愛で子に持続的な「愛」が与えられないかもしれない。けれども、「産んでいない」人が、「愛」を与えることで、その子は子として存在できる可能性が開かれる。親を選べない子は、「愛」によって、その「愛」を分け与えた者と「家族」になることができる。高倉家の三兄弟はまさしくそのような関係であった。あくまで子が子として存在するための条件とは、かれの存在が揺るぎなく「愛」によって支えられているかであり、その「愛」において血縁関係は絶対的な要素足り得ない。父を亡くした冠葉は、陽毬から、飢えて死にそうになっていた晶馬は、冠葉から、子どもブロイラーに送られた陽毬は、晶馬から、それぞれ「愛」の贈与によって「家族」になることができたのであり、その点では「家族」とは「愛」が結んだ人間関係の一形態ということなのかもしれない。

 逆に、「愛」の与えられなかった子は、子どもブロイラーに送られて、その存在を「透明」なもの、つまり抹消されてしまう。個を構成していたすべての特徴が剥奪され、轟々と光る刃によって粉々に砕かれ、ガラスの破片のように跡形もなく存在が消し去られてしまうことになる。親に「愛」されず、自らを交換可能な存在だと悟った幼き多蕗少年も、「選ばれなかった」子猫に「愛」されなかった自分の姿を写し見て諦めた陽毬も、子どもブロイラーに送られてしまっていた。だが、桃果が、晶馬が、彼らを救った。命をかけて、傷の代償をはらって、手を伸ばしつづけた。君は決してピクトグラムのように交換可能な存在ではない。唯一で単独の君は他に替えのきかない、尊重が欠いてはならない存在である。偶然の存在として生まれた君の生には、かけがえのない意味がある。唯一で偶然うまれ落ちた生に意味を与えるのは、「愛」に基づく存在の贈与なのだ。それを象徴する言葉が、まずこれまで述べてきた「わたしのために生きて」であり、そして「運命の果実を一緒に食べよう」である。

 

運命の果実を一緒に食べよう

 「運命の果実を一緒に食べよう」。桃果のノートに記されていたはずの言葉を、最後ノートが灰になったにもかかわらず、苹果はその言葉を引き出すことができた。そして、それがトリガーとなり、彼らの乗っていた列車は単線的「運命」から別の路線に進行方向を切り替える。それはまさしく「運命」の乗り換え、すなわち、「運命」からの解放であり、あるいは「運命」を己の手で主体的に選び取る意志表明だったのだ。

 結果、その言葉をきっかけに「愛」の円環運動が息を吹き返す。

 「運命の果実」としてリンゴを分け合った幼き日の冠葉と晶馬は、「愛」によって理不尽な箱に収められた恣意的な「運命」から自分たちの生を獲得した。

 子どもブロイラーで砕かれる寸前だった陽毬は、晶馬からの「愛」によってその存在が透明にならず、かつて「選ばれなかった」自分の生が抱きとめられた。

 父を亡くしたうえに「選ばれず」葬儀で悲しんでいた冠葉は、陽毬からの「愛」を込めた絆創膏のおかげで、自分の生に光を見出した。

 かつて高倉の子どもたちがそれぞれ「愛」の刻印を分け与えたことによって輪が形成された「愛」の円環運動。「愛」で結ばれた子どもたちは、「家族」を作り、たしかにお互いに幸福な日々を送ることができた。「愛」を互いに交換し育んだからこそ世界で生きることができた。

 そして、クライマックスの今、プリンセス・オブ・ザ・クリスタルの上で再び晶馬がかつて冠葉に与えられた命を、かつてとは逆の順番で、つまり晶馬→陽毬→冠葉の順で返す。お互いがお互いの生を支え合っていた、その赤く燃える命の源が逆流する。かつて互いが生きる契機を生んだこの運動が再び脈動するのである。

 だがしかし、今回は以前とは異なり三人で完結する輪ではない。なぜならば、「運命の果実を一緒に食べよう」と、引き金を引き、この運動の原動力をもたらしたのはまさしく荻野目苹果だからである。

 苹果が「愛」を獲得し、晶馬を「愛」したからこそ、血液が巡るように再び「愛」の円環運動が起動できた。「運命の果実を一緒に食べよう」とは、残酷で理不尽な単線的「運命」から主体を解放し、お互いに生きようとする=共同的な生の意志の表明である。その言葉によって「愛」の揺るぎない肯定性が「箱」の持つ否定性―存在の肯定性vs存在の否定性―を克服する。「愛」に基づく存在の贈与を謳う言葉が、「運命の果実を一緒に食べよう」なのだ。

 苹果がスイッチを入れたことで、再び彼らの生の契機が回復し、冠葉はテロの実行を最後の最後で踏みとどまり、本当の光を見つけ出す。桃果の「愛」が、眞悧の「虚無」に打ち克った瞬間。

 存在=命は「愛」によって生きられるものだ。

 失われつつある陽毬の命を救うため、冠葉は全存在をかけて「愛」を彼女に与え、その代償に「この」世界から去ってしまう。けれども彼は最後の一時で「生」の意味つまり、存在をかけた「愛」の贈与による「生」を見出した。

 「運命」を乗り換える代償に炎に包まれた苹果を救うため、晶馬は業火を己が引き受けて「この」世界から消えてしまう。だが、彼は最後の最後に苹果に伝えるべき言葉を、彼女が「運命」を乗り換えた後も生きられる、存在の基盤となる言葉を、彼女に伝えた。

 そしてついに冠葉と晶馬の存在をかけた「愛」の贈与が、単線的「運命」に支配されていた世界を書き換えた。「運命」の子どもたちを自由にした「愛」。「愛」こそが、恣意的な選択によって「運命」が予め決定づけられた世界を克服できる。確かに「この」世界の風景を書き換えることは、その過程で何かを失わなければならないから、代償は一人で負うには大きい。けれども、それでも世界が理不尽な「運命」に支配されているならば、「虚無」に駆動されたテロではなく圧倒的な「愛」で対抗できる。偶然生まれ落ちた生の意味を「愛」ならば変えることができる。たとえ代償に「この」世界から去ることになっても、「愛」が繋がる限り、生ける者の存在を根源的に支える、そんな言葉を残すことはできる。

 村上春樹『かえるくん、東京を救う』で、かえるくんは地下の世界でみみずくんと戦った。それは地上の世界と確固たる壁で分け隔てられた世界ではなく、「ここ」には見えないけれど「そこ」に在る世界だった。確かにかえるくんは、ピンドラとは異なり、主人公の片桐に「愛」を与えたわけではない。だが、この作品がピンドラで何度も現れるのは、「この」世界にたとえなくとも、「そこ」に在った者の想いによって、「この」世界が支えられているというテーマゆえである。だから、「運命」を乗り換えた後の世界で陽毬の家族構成が変わっても、苹果と再び出会って友人になり、二人の兄の「だいすきだよ!」が彼女の生を支え続ける。それが彼女を生かす「愛」となる。

 輪るピングドラムは、「何者にもなれないお前たちに告げる」という印象的な言葉から始まった。けれども、「運命」から解き放たれて自らの「運命」を「愛」によって他ならぬ自分の意志で生きられるようになった今、「愛」があるから「何者」にもなれることができる。「透明」になることもなく、単線的「運命」に支配されることもなく、自らの存在を「愛」によって肯定できる。ひとつひとつの「愛してる」が、互いを結び、お互いの人生を意味づけ、「愛」の輪をつくることができる。そのように「愛」に満ちた「生」の志向こそが、他ならぬ「生存戦略」だとわたしは思っている。

 

健康診断の哀しみ

 シン・ノブオはとにかく腹が減っていた。朝食はもちろん、昼飯も食べておらず、さらに昨日は夕食すらとっていない。シン・ノブオ、26歳男性、大卒。とあるIT企業でSEとして働く平凡すぎる男だが、今日この日に限っては、彼こそが新大久保で最も腹を空かした男であったのは疑いのないことだ。なんといっても、山手線で一車両全体に聞こえる腹の音を響き渡らせた男である。なんといっても、チーズタッカルビの屋台に向かって突進する素振りを見せて周囲の女子高生を全速力で走らせた男である。そしておまけに喉も砂漠のようにカラカラ。…別に彼を責めるわけではないが、水くらい飲んだって良いのだし、しっかりとルールに目を通せば、昨日の夕食を抜く必要はなかったのだ。が、几帳面な彼は彼が思う「最高」の状態をキープしようとしていた。お金がない?いや、惜しい。貧乏ゆえではない。マゾヒスト?半分当たりだ。そう、彼はこの炎天下、待ちに待ったあのイベント健康診断のために、この圧倒的な苦難を、引きつった笑顔いっぱいで受け入れているのである。

 さて、気温35度を超える灼熱の新大久保ストリートをゾンビのように歩き抜けて、ノブオはつるつるした巨大な寒天のようなビルの中へと吸い込まれていった。流石に設備もろもろしっかりしたビルだから、彼の常駐先とは違ってちゃんと冷房が効いている。ここが、今日彼が年一回の健康診断を受診する、新大久保KANTEN健診センター。つまり、彼の言葉を借りれば、”決戦の舞台”ということになるのだ。

 声の形をとっていない枯れた声を出して受付を困らせ、更衣室で何度も深呼吸してからあのバスローブみたいな指定の服を着て、もう一度深呼吸してから彼は会場に足を踏み入れる決意を固めた。俺は今日、このために一年間、不断の努力を積み重ねてきたと言わんばかりの物々しい雰囲気を纏っているようである。それはもちろん看護師だけでなく、他の受診対象者もその圧を感じざるを得ないほどの静かな迫力を伴っていた…。

 が、もっとも、彼にとって大事な検査、いやステージは実のところたった一つであった。だからそれ以外の検査に関しては、殊の外注目する必要は特にあるまいし、彼だって他のステージなど、ただの前哨戦に過ぎないと考えていたのだから、今年は少し更衣室から気合を入れすぎていたというのが実情である。というのも、採血、尿検査、視力検査、聴覚検査、レントゲン、すべてそれほど気にかける必要もない些細な前座なのだ。去年だって、いや一昨年だって、これらのステージで辛酸を舐める思いをしたことは一度たりとてない。それは言い過ぎかもしれないが、とはいえあの”勝負”のステージを除けば、彼は視力検査では一度だけ「チャレンジ」を要求しただけで、それさえ目を瞑れば、比較的善良なお客様だった。現実問題、彼は社会人として疵という疵もない、よくできた男なのである。…たった一つのコンプレックスを除いては、という留保はすぐさまつけなければいけないが。

 昨年にその欠点ゆえに担当の看護師を困らせてから、彼だけは特別にその”勝負”のステージが最後にまわってくるよう取り計らってもらった。無論、彼としては悪意などさらさらなく、ただ「正常」に検査を受けたいがために、泣いてクレーマーにならざるを得なかっただけである。他の人の迷惑をかけてでも、それだけは決して譲れないラインだったのだろう。何が何でも心を落ち着けてそのステージに向かいたい彼は、普段の仕事では見せない尋常ならざる粘りを見せ、とうとうついに健診センターの方が折れる、というカノッサの屈辱もひっくり返るような偉業を去年成し遂げた。したがって今年は、彼だけは検診の順番が固定され、受付の人も看護師も医師も、彼にはあらゆる意味で並々ならぬ注目を置いていたのである。

 では一体、それほどまでに彼の魂に火を点ける戦場とはどこなのか?

「シン・ノブオさん、シン・ノブオさん、F会場へお越しください」

(ついに来たか…)彼は春の筍が伸びるように席を勢いよく立ち、背筋をぴんと伸ばして会場へ早歩きした。ツインテールの看護師が扉の前に立っていた。

「シン・ノブオさんでお間違いないですか?」

 首に下げていた保険証ストラップを見せた。「ええ」

「ちょっと裏返ってますね、失礼します…」

「ああ、これはとんでもない。…はい、私がシン・ノブオです」

「お待たせいたしました」確認が済み、ツインテールの看護師は眼を合わせた。「ではこちらにお入りください」

「よろしくおねがいします」

 まずは昨年同様、ウエストサイズの計測だった。取るに足らない。が、メジャーを巻き付かれると、不思議とお腹からキュルキュルと変な音が出て、危うくなぜか屁まで出そうになった。しかし、すんでのところで危機は回避された。

「では次は体重になります」スムーズな進行だ。

 もちろんこれも、取るに足らない。幼い頃テレビで、あれは中国雑技団のパフォーマンスだった気がするが、生卵のうえに足を乗っけて潰さないようにバランスを取る、物理法則を完全に拒絶した男がいた。彼も今そんな気持ちで体重計に乗った。59キロ。絶対に卵は潰れる。が、今は集中しなくてはならない。彼は汗をかいていないのに、額を手で拭って、息を整えた。一方、看護師は、なんかめんどくせー客だな、と心のなかで悪態をついていた。

「それでは次ですが…」

「し、静かに」

「はい?」看護師は今日既に100人以上対応しているので疲れも出てしまったのか、少し怒り気味な声がつい漏れてしまった。

「…」沈黙。

「あの、お客様」

「黙ってなさい!」彼の声が外のフロアまで響いた。異変に気がついた他の看護師が数人急いで扉を叩いて入って、彼の顔を見るなりその理由を納得した。彼ら彼女らも新人ツインテール看護師のそばにいることにした。

「申し訳ございません…」

「いいんです、わかれば。もう大丈夫ですよ。気持ちは落ち着いています。こんなことですべてをふいにするわけにはいきませんし。ほら今、僕は整ってます。さあさあ」

「かしこまりました。では次ですが、身長を測ります」

「ええ」そう言って彼はまるで死刑執行台に足を踏み入れるかのように、身長計の上に乗った。「ああ…ついに来たか」

 先程の怒声に驚いた看護師たちは、彼の様子を窺って黙ったまま待つことにした。

 しかし彼も目を閉じたまま沈黙している。

「シン・ノブオ様、準備はよろしいでしょうか?」と、痺れを切らしたベテラン看護師の男が声をかけた。「よろしいでしょうか?」

 まだ沈黙している。1分ほど我慢比べが続き、ついにノブオが開眼した。

「どうぞ」

「では…」そう言ってツインテールの看護師が通常どおり、すっとカーソルを降ろした。あっという間の出来事である。「164cm」

「はい?!」彼は思わず目を大きく見開いた。「はい?!え!?」

「次は」と新人看護師が言おうとした瞬間、彼は頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。そして何かを頭の中で整理したような表情をしてすっくと立ち上がり、一年ぶりにあのセリフを放った。

「チャレンジ」

「あの…?」

「聞こえませんでしたか?チャレンジ、です」

「お言葉ですが」ベテラン看護師が口を挟んだ。「チャレンジ制度は10年に1回きりとさせていただいております。お客様は昨年、例外的に5回ほどチャレンジを許しましたので、今年はもう」

「もう一度言います、チャレンジ」

「ですから」

「カスタマーファーストですよ、看護師さん」彼は涼し気な顔で言った。「チャレンジ」

 ツインテールの看護師とベテラン男看護師はお互いの顔を見合わせた。いざとなったら今年は奴が暴走することに備えて警備員も呼んでいる。待機中の医師には柔道五段の方もいる。もし何かあればお力を借りよう。と、ここまでベテラン看護師は考えてうなずき、シン・ノブオの方を向いて睨んだ。「いいでしょう」

「やれやれ」ノブオは内心ほっとしていた。

「ですが、これが最後のチャレンジです。もし次何か変なことおっしゃったら、来年から出禁にします」

「ええ」

「では準備をしてください」ツインテールの看護師が言った。既に後ろでは体重を測り終えた人が何人も待機しており、検査の列が渋滞し、詰まっていた。それもツインテールの看護師の怒りをかきたてた。

「いいですか?」もう一度ツインテールの看護師がイライラ気味に確認した。「いきますよ」

 返事なし。

「いきますよ?」

 彼は眼を閉じて言った。「どうぞ」そして思い切り背筋を伸ばし、顎をこれまで一年間、綿密に計算した最適な角度に引いて、運命が頭に振り下ろされるのを待った。が、眼を見開いた瞬間、彼の視界にゆうに180cmを超える男が目に入り、それが銀の湖のように水面が整えられた彼の心に、ほんのわずかにさざ波を立てた。ずれる頭の角度。萎える髪の毛。曲がる背骨。「あ!」と彼は取り返しのつかないタイミングで思わず言ってしまった。

「159cm」

「今のは不正だ!」彼は我を忘れていた「チャレンジ!」

「駄目です。次の方、どうぞ」

「頼む、チャレンジ!」

「どっちにしますか?164cmか、159cmか」ツインテールの彼女が淡々と尋ねた。

「どっちもおかしい!」

「ですが」

「去年は165cmを超えていたんだぞ!その前の年は167cm、なんでこんなに縮む?なぜ?どうして?」彼はまだ身長計の上に決して動かぬ石像のごとく揺るぎなく立って駄々をこねていた。「ほぼ毎日牛乳を飲んだぞ?足を伸ばして眠りについたぞ?背中のマッサージだって何度も行ったぞ?なのに…あなた達はそれを…」

「哀しいですが、そういう年もあります」彼女は少し同情していなくもなかった。「来年がありますよ」

「でもチャレンジはできないのだろう…」

 そして彼の眼に溜まった涙があふれそうになったとき、館内放送が流れて、身体計測は別の会場で行うとアナウンスがあった。ベテラン看護師もツインテールの看護師も、その場にいた他の看護師も、ローブをまとった受診者たちもみんなぞろぞろとB会場へ向かって歩いていった。誰一人彼を振り返らなかった。アナウンスも終わり、人々の足音は遠ざかり、それでも彼は呆然と立ち尽くしていた。

 シン・ノブオはどうしても身長計の上から降りることができなかった。許せなかった。看護師も医師も憎い。けれども許せなくはない。何が許せないのか自分でも分からないが、涙は溢れて止まらなかった。

 一人になってしばらくしてから、もう一度深呼吸して自分でカーソルを降ろし、その目盛りを確かめた。もう声は出なかった。涙目のせいかあまり良く見えなかった。でもうまく見えなくて、その方が幸せなのだと思って、閉幕した舞台にさよならを告げるかのように身長計を降り、シン・ノブオは静かに、孤独に、今年の健康診断を終えた。

 

ホームルーム闘争/逃走

 よもや大学に入ってまでクラス単位で学生が行動するとは思わず、入学直前の交流合宿では桜の花びらとトランプ舞い散る畳部屋の片隅でTwitterに熱中してぶつぶつ文句を呟いていたY翁は、最終日の山登りレクリエーションの休憩中、泥濘に足を突っ込み捻挫して一人早退せざるを得なかったし、初めての体育の時間においては必然的にTAとペアを組まされる羽目になった。筋骨隆々たるTAのハキハキした声のせいで自分のだみ声が際立つだけでなく、練習内容を説明するにあたり、ロールモデルとして駆り出されて公開処刑される水曜日の2限は彼を苦しめるためだけにあった。もっとも、さらに苦しんだことといえば、美女とイケメンが占有するフランス語の授業であり、いつまでも喉に痰が詰まったような発音を皆の前で連続で披露させられ、ある日咳がひどく止まらなくなって喘息発作だと理解したおめでたいお坊ちゃまの一人が救急車を呼ぶ顛末となった。結果、もちろん無事だったのだが、しかしこの事件がよほど屈辱的だったのだろう、結局Y翁はその後フランス語の教室には一歩も足を踏み入れることはなかった。

 とはいえ時間が経つにつれてY翁に対する風向きも少しずつ変わり、梅雨も明けた頃には徐々に親しまれ、クラスの輩共からは「お爺」というニックネームで呼ばれるようになっていたのだから、人の第一印象というのは少し悪いくらいが案外ちょうど良いのかもしれない。Y翁の場合は、天性のダサさだと思われていたあらゆる点が愛嬌を生み出す美点に化学変化した特徴的な例で、弱すぎる足腰も、ごぼうみたいな細い腕も、覇気がゼロの声も、すぐ詰まる喉も、いつの間にかすべてが愛らしい要素として彼に定着してしまっていたのだった。他にも例えばこんな日常的なやりとりが印象に残っている。

「やっほー!お爺!LINEで話題になった期末のシケプリだけど、あとで内容メールで送っとくね!(しかし入学前からお爺はクラスのグループLINEに入っていた!)」あるいは、

「…あの…今度ラーメン一緒に行きませんか…実は僕も2浪なんです…前からお爺さんとはいろいろ話したいと思っていて…(しかしお爺はたったの1浪だった!)」

 だがこの類の優しい揶揄を聞いているうち、Y翁がだんだん自分のキャラに味をしめるようになってきたのは紛れもない事実である。当面の間は、「お爺」で良いだろう。つまり、Y翁は「変わったいじられキャラ」としてようやくクラスに馴染んできたと自分で自分を納得させたのだった。

 こうして始めこそ散々だった大学一年の春学期も終わりにさしかかり、クラスのわだかまりも解きほぐれた頃、ついに秋の学祭に向けて出し物の準備が始まった。学祭のスローガンは「ジェネレーションZ」。昨年の冬に世間の関心を大いにひきつけたあの流行語、「Z世代」を念頭においてのことであり、ちょうどお爺の一つ下の現役合格した学年はほぼ1996年生まれということで、この新しく光り輝くワードには学内のみならず、大手広告代理店も首を突っ込んで取材にくるなど、大きな反響を呼んだ。出し物は、「Z世代」っぽいもの、というルールさえ守っていれば何でもOKということであるらしい。

「で、お前あれどう思うよ?」木曜の放課後、いつものようにつけ麺をすすりながら、今日も角刈りのAが呟いた。

「再来週のイン哲のレポート課題?」Y翁は必修インド哲学で単位が取れるか憂鬱な気分になっていた。

「いや、確かにそれも悩みだがちがう、その前のクラス会で挙がった出し物の案。なんかF子の言うように、TikTokを使った寸劇パフォーマンスになるんかな。ここだけの話、ぶっちゃけ言って、正気の沙汰じゃないぜ、あれ」

「たぶん明日には否決されるよ」Aが散らしたつけ麺の汁を見つめながらY翁は言った。

「今日は皆ただノリでTikTok推してただけってことか」

「わしはそう思うね」

「お前はどうなんだよ、2浪のX丸、だってお前…」と、そこまで言いかけたところで、2浪のX丸は濃厚海老出汁スープを一気に飲み干し、勝ち誇ったように器をカウンターの上に置いた。完飲の響きが店内に行き渡った。「…僕は、ちょっと何も言えないよ」

「え、なんでだよ」

「だって僕はZ世代じゃないんだ…正直わからないよ…」

「いいじゃねーか別に、たった2歳しか違わないんだぜ? 社会に出てみたらそんなの替え玉ほどの差ですらないに決まってる。お前みたいな長老が若いやつの過熱を抑えないでどうするんだよ?」

「じゃあAは現役だけど、Z世代と呼ばれることについてどう思うの?」

「考えたこともねーな。ぶっちゃけ何を意味しているかよくわかんね」

「お爺は?」

「わしは団塊じゃ」Y翁はお冷を飲んだ。

「すんません!替え玉お願いしゃす!」

「…僕は自分がZ世代でなくて寂しいけど、でも良いんだ。僕は僕でミレニアル世代って呼ばれてるから」

「ああ、別名Y世代って呼ばれてるやつか」

「そう」

「じゃあ2人とも2浪だし俺とはちょいと感じ方が違うのかもなー」

 Y翁は訂正せずに沈黙した。湯気が立ち昇るつけ麺の追加どんぶりがAの前に置かれた。

「けどTikTokはないぜ!」Aは濃い眉をひそめてまくしたてる。「だって一応俺たちそこそこ良い大学じゃん。なんか軽々しいというかさ、あれ女子高生が主に使ってるって聞いたけど?」

「でもF子だって半年前は女子高生だよね」

「まあ、言われてみればそうか!」そしてAはなぜか割り箸を新しく取り替えて豪快に割り、「でもとにかく、TikTokでメインの出し物が作れるとは思えねえよ。まさか劇をTikTokで行うってか? あるいはショートコント集でも作るんか? もし明日だれも異議なければ、ちょっくら俺が一発かましてやるぜ」と、勢いよくつけ麺をすすりながら、鼻息を荒立てているのだった。

 翌日、線形代数の教授が第12週目にして初めて授業を早めに切り上げず、90分間まるまる講義することに成功したため、クラスの士気は平常よりひどく下がっていた。中には明らかにストレスを感じてしまった輩もいるらしく、すでに役割分担が決まったシケプリ(試験対策プリント)作成の放棄を冗談交じりにぼやく者も現れていた。

 無意味な質疑応答が終わり、教授がご満悦の様子で教室を去ったところで、すぐにジャージ姿のF子が入れ替わるように入ってきた。彼女は賢明ゆえに線形代数を初っ端から切っていた有望株なのである。「さあ、お待ちかねホームルームの時間ね」

「昨日の続きだ!」と、待ってましたとばかり、2時間も連続で体育が続くのを喜ぶ男子中学生のようにAが手を叩いた。

「ええ、そうよ。席につかなくてもいいから、皆いったん注目してくれないかしら。10分もあれば終わるわ。…ありがとう。じゃあ、昨日のことだけど…」と言ったところで、我がクラスの「策士」、噂では入学試験首席、三国志研究会のホープである銀縁眼鏡のG太が突如口を挟んだ。

「F子さん、実はその件なんですが」そう言って起立し、コホン、と彼はわざわざ咳払いまでした。「実は、他にも案を考えまして…僕に発言を許してもらってもいいでしょうか?」

「ええもちろん、構わないわ。で、どんなアイデアなの?」

「アイデアを名乗るほどのものでもありません。まあ、ちょっとした思いつきですが」

「御託はいいわ。ジャスト・アイデアでも良いから述べなさい」

「それは…」と、策士が説明したところによると、以下のような案である。 

 ー策士曰く、Z世代の特徴は数え切れない程あるが、まずはデジタルネイティブであることを忘れてはなるまい。彼らの大多数が中学から遅くとも高校入学前にはスマートフォンを手にしており、日々のコミュニケーションはLINEを通じたSNSでのチャットで済ましている。もちろん、LINEだけでなく彼らはTwitterInstagramFacebook等、状況や場面に応じて多様なSNSを使いこなし、常に自分自身の情報をインターネットに流している訳です。したがって、デジタルネイティブ世代の彼らは、他の世代とはコミュニケーションのスタイルが根本的に異なっており、中でもセルフプロデュースには非常に長けていると言って良い。悪く言えば、自己顕示に対する忌避感が薄いのだが、この心性を利用するという点で僕はF子さんのTikTok活用案には概ね賛成なのです。つまり、F子さんのアイデアを拡張すればそれ即ち「自己の民主化」。誰もが好きなものを好きなときに好きな人と共に発信できる、そのプラットフォーム空間を我々のクラスはソフトにかつスムースに提供する。それこそが、F子さんが昨日仰っていたアイデアの種でした。素晴らしい種なくして素晴らしい芽は生まれない。そういえば昨今では、「親ガチャ」なる言葉がありますけれども……

「わかった、わかった策士。でも、知識自慢はよせ」我慢の限界に来ていたのか、今日も角刈りのAが割り込んだ。さすがラグビー部のタックル担当として有名なだけはあるのだ。しかし、Aはブチギレているわけではなく、むしろニヤニヤ笑っており、好意的に見れば策士Gに合いの手を入れているようにも見えた。「で、銀縁眼鏡の策士さん!それで結局、あんた何が言いたいんだよ!」

 ー策士曰く、では端的に述べましょう、しかしZ世代の特徴は当然ながら旺盛な自己顕示欲のみに留まるものではありません。彼らは…いや、僕達は人の内面に土足でズカズカ入り込まないようなコミュニケーションをプロトコルとしています。禁忌です。考えてもみてください。最近の若者が外で派手に口喧嘩している様子を見たことがありますか?あるいは彼らが獲物を狙う肉食動物のように社会に対して物理的にかつ積極的に喰らいつこうする傾向は強いでしょうか? 否、です。(です。の声がやたら小さかった)つまり、もはや我々は学園紛争など起こせない世代なのです。衝突への忌避感が世代全体に網目のように広がり、それどころか個々人の身体全体までもが防衛本能に支配されてしまっているのです。しかしこれほど空気を読むことに長けた我々ですが、一方でコストパフォーマンスを何事においても重視します。論理の順番から言えば、空気を読むコミュニケーションを成立させるために、あるいは「ハブられない」ために、供給過多のコンテンツ市場から流行のものを漁りに漁るのです。それも高速で大量に機械的に、ね。人から置いていかれないように我々はかつてない速度で走り続けることが運命として課されています。回転木馬のデッド・ヒートとは上手く言ったものです。さて、前置きが長くなりましたが、ここから本題に入りましょう。これまでの僕の話を大雑把に要約すれば…

 とうとうF子があくびをした。他のクラスメートの関心もスマホに向かっており、偉大なる策士Gの輝かしい演説は本人を除く誰一人にも記憶されない点で、希少価値を持つことになるのは疑いないように思われた。

 それから10分、15分経過しても、一向に彼の「ジャスト・アイデア」が顔を出す兆候すら見えないので、とうとうしびれを切らしたF子がジャージの袖をまくってすっと静かに手を挙げた。ひとり悦に浸っていた我らが愛すべき銀縁眼鏡は目がイッたまま口を猛スピードで動かし呪文を唱え続けていたので、Aがズカズカと近づき、彼の両肩をバシッと叩いて一旦座らせた。それでやっとこの長広舌にブレーキがかかったため、F子が一度軽く手を叩いてから、

「Gさん、ありがとう。とても示唆的で勉強になったわ。」と一言ねぎらった。

「ええ、私も良かったと思うわ。」と窓際にいた長身のV香も元ギャルのW美も口を揃えて言った。銀縁眼鏡にとって、3人もの女性に関心を持たれることは、これまでのバレンタインデーをすべて足しても足りないほどの奇跡であったに違いないが、当の本人は意識がヒューズしており、首をだらりと伸ばして天井を見つめていた。

「で、ホームルームの時間はまだ40分だけ余裕があるから、それまでに決めちゃいたいんだけど、他に何か案がある人はいるかな?」とF子が再び仕切り直した。

「いや」

「ないなぁ」

TikTokでいいんじゃね?」

ロシアンルーレットたこやき屋台は?」W美が発言したがスルーされていた。

「うん、じゃあ他の案もない、ということで今年の1年くじら組の出し物は…」と、F子が黒板に「T」の字をデカデカと書いているとき、干からびて力尽きたかのように思われていた策士Gの銀縁眼鏡が一瞬光った。消えかけていた生命の炎は、まだ絶えていなかったのだ…。

「委員長、僕は申し上げたいことがあります…」

「あれ、Gさん、もう決議は終わったよ?」

「け、決議?」

「うん、さっきみんなで話し合って決めたの」

「そ、そうなんですか…」

「そうよ」

「だとしたら僕は、賛成票には投じていません…」

「それは君の意識が戻ってこなかったからやむを得なかっただけです。ね? 概ね私のアイデアで良いんでしょ?」と、畳み掛けるように言って振り向き、F子は残りの文字をチョークで書いて、とうとうTikTok最後の「K」に至った。が、その最後の一筆を書き終える直前の瞬間、黒板にひびが入って割れんばかりの声でGが叫んだ。

「おかしいですよ!」

「どうしたんですか急に!」

「おかしい!何もかもおかしいんだ!」

「いえ!それはあなたです!Gさん!」堪忍袋の緒が切れて、教壇を叩き負けじとF子も叫んだ。「ねえ、ここは曲がりなりにも日本有数の偏差値75のトップオブトップの大学なのよ。なのにあなたの話ときたら、本校歴代学長の入学式式辞をすべて継ぎ合わせたとしても敵わないくらいの容量だったのよ!そのありがたみがわかるかしら? 一体全体どうやってこの大学の国語の試験を突破したのよ。それともあなただけマス目の小さい特別な解答用紙が与えられたってわけ? ああ、ダイバーシティ万歳だわ!」

「おい!あんまりだ!」と、すかさずAがタックル。

「F子さん落ち着いてください!僕はただ、こんな決め方おかしいって思っただけで」

「叫んだじゃない!」

「それは…」

「いいわ。決めました。学級委員の権限を行使します。今後2ヶ月間、ホームルームでのあなたの発言を許可しません。わかったらお座りなさい、エリート君。」

「ああ、、ああ、、!」

 でも夏休みの間だけ発言が認められないならほぼ恩赦だね、と2浪のX丸がY翁の耳元でささやいたとき、今日も角刈りのAが「ちょっと待ってくれ委員長」と言った。先程Gが演説していた際に、不気味にニヤニヤしていたAが何か陰謀を抱えて待ち伏せているように見えたのをY翁は思い出した。

「はい、Aさんまで、なんですか。そろそろ終わりにしましょうよ」

「いやあ、俺はさっきからずうっと民主主義のことを考えててね」

「民主主義?」

「そう、あんたの大好きな民主主義だ。」そう言うと、ラグビーで鍛えた肉体を誇示するかのように胸を張ってクラスメート全員の注目を寄せ集め、起業家がプレゼンで立ち回るときのように両腕を大げさに広げたAは一言意味ありげに呟いた。「これって独裁じゃないのか?」

「聞こえませんでしたけど、Aさん。何かおっしゃいました?」

「いや何も。このホームルームが民主主義で運営されていたんなら、クラスに居たのはたった一人のみじゃねえか、と言ったまでよ」

「見た目に反して随分ウィットな言葉遣いなのね」

「お?」

「でもさっき私は問いかけたじゃない、TikTokで良いですか?って。そしてそのあとの沈黙がこの決議の正当性を証明しているのよ」

「黙ってたらYesってか。お前、つけ麺食べ終わって黙ってても替え玉は絶対に来ないぜ。」

「なんですって?」

「わかんねえか、じゃあ」そう言って、Aは椅子を右足で踏みつけて、左手を胸に当てて大きく息を吸った。

「なあ、みんな!これがラストだけどTikTok寸劇で良いと思う人は座ったままで居てくれ。そうじゃなく、こんなのおかしいと思う人は俺と一緒に立ち上がってくれ。正真正銘、これが最後のお願いだ!」

「何をバカなことを!」とF子が叫んだが、そのスピーチの一言はクラス全体を動揺させるには十分で、一度感染が広がったざわつきは、流石のF子にも止められなかった。…が、しかし、意外にもAが思い描いていたシナリオ通りにはすんなりと進まなかった。頭でこしらえた陳腐な想像が現実の現実たる所以にぶつかった結果であろうか。勝利を確信していた彼の期待に反して、誰一人すぐさま立ち上がろうとする素振りは見せなかった。それほどまでに皆、空気を読むことに長けていたのだろうか。あるいは、恥、恐怖、空腹、倦怠感。線形代数の後の時間というのも悪く影響したのだろうか。やがてざわつきは沈黙へと収束し、誰かが我慢しきれずオナラをしたのを皮切りに教室は屁と静けさに包まれた。ただ諦念のみが漂っていた。その様子を見たAが「そうか…」とひとり呟いてしおれて座ろうとしたとき、「私は戦うわ」と、どこかから小さく声が聞こえた。

「私は戦うわ。」そう言って立ち上がったのはW美だった。

「W美さん?」F子はつい変に高い声を出してしまった。

「ええ。だって、納得できないもの」

「あなたはTikTokじゃ駄目だって言うの?」

「駄目というより、もっと話し合った方が良いかなって」

「話し合ったじゃない!」

「落ち着けF子!」Aが制止した。そして、「そうこなくっちゃな…ククク」と反撃の狼煙をあげる主人公気取りで皆に聞こえる独り言を呟いた。

「ねえ、他の人も遠慮しなくていいわ。これで立ち上がったからといって誰かの気持ちを害することにはならないわよ。それに、モヤモヤしたまま夏休みの準備期間に入れば、良いものだって決して作れないと思うわ」

「さすが元ギャル、そのとおりだぜ」

「じゃあ…」と次にB男が少しためらいがちに立ち上がった。そして、定食屋の息子N助、ツイッタラーP菜も続いて腰を上げ、やがてクラスの約半分がこの運動に賛同しはじめていた。ぞろぞろ立ち上がる様子を見て、Y翁は中学の英語の授業で見せられた公民権運動のビデオを思い出した。Aが狙った、いや願っていた展開が確実に、着々と近づいてきているのが分かった。

「さあ、F子。これが俺たちの”意思”だぜ」

「揃いも揃って帰りの時間を引き延ばそうとするなんて…どうかしているわ!」

「だが、これが民主主義だ」そして自慢気に言い放ったその時、Aの顔の半分がカーテンから漏れ出た午後3時の陽光に照らされた。彼は敏感にもそれに気がつき、まるで啓示を受け取った聖職者のように再びゆっくりと左手を胸にやり、平穏を祈るように眼をそっと閉じた。その姿を見た数人が―まさか神々しいとでも思ったのだろうか―また立ち上がった。

「これだから…」とF子が教卓で頭を抱えた。「これだから、民主主義は…」

「なに?いまなんて言ったの?F子さん!」

哲人政治で良いのよ!この愚民め!」

「そりゃ聞き捨てならねえなァ!」

 かくして、ついに戦いの火蓋が切られてしまった。AはF子に向かってその巨体を以て突撃を試み、一方F子のInstagramをフォローしている「親衛隊」たちは彼女の前に肉弾バリケードを即座に築き上げて、爆進するラグビー・チャリオットを力の限りで食い止めようとしていた。組み合って絡み合った男たちの低い唸り声が教室を根底から揺るがそうとしていた。W美は、理性を失って暴走した、あのつけ麺怪獣を落ち着かせようと必死に叫んでいた。だが、空しきかな。それも及ばず、もはや一度燃え広がった革命の炎を鎮火させることなど、彼女一人では手に負えないことだったのだ。教室の局所で乱闘が起こり、くじら組のメンバーはこれまでに経験したことない闘争の高揚感に酔いしれていた。

 満場一致で誰がどう考えても戦力になりえないY翁は、その細い身体を活かして乱痴気騒ぎの隙間を縫うようにして教室から脱出しようとした。なんとか戸までたどり着いて開けようとしたとき、後方からAの怒声が矢のように飛んできた。

「待てお爺さん、どう思う!」ビクッとしてY翁は振り返った。「はたしてジェネレーションZとは若者の消費喚起を促したい先行世代の欲望が反映された単なるマーケティング用語に過ぎないからTikTokを嬉々として使う俺達は広告代理店のマリオネットだと思うんか!?」Aは鍛え上げられた鋼鉄の上半身を肉の防壁にめり込ませながら、一切噛むことなく、昨晩策士Gから教えられて丸暗記したセリフをぶつけた。が、この場から逃げること以外に何一つ考えられないY翁にはリスニング試験に集中できるほどの余裕はなかった。

「いえ、お爺さん、カンペしか読めない筋肉系陰謀論者に騙されては駄目です!」防壁の上に立つ指揮官ジャンヌ・ダルクことF子が、髪を逆立ててAを跳ね返すように負けじと声を張り上げた。「TikTok万歳!TikTok万歳!TikTok万歳!」それは大合唱のフィナーレのように響き渡り、教室にかつてないほどの熱気が満ちるのに十分すぎるほどの呼びかけであった。「万歳!」

 引き戸の前でY翁は呆然と立っていた。わしに何ができるだろうと思って右の手のひらをしばらく見つめた。半年前は膨れ上がっていたペンだこはもう消えていた。そして顔をあげると、禍々しい悪意と荒れ狂う暴力が混沌とするホームルームの光景がやはり相変わらず広がっていた。瞬きをしても同じ光景。すべて幻覚ではなかったのだ。一体なんのための受験だったのだろう。一体なんのための大学進学だったのだろう。誰もが普段より2オクターブ高い声で罵り叫び、誰もが春の体力測定のコンプレックスを晴らすかのように腕を振り回していた。誰もが社会の構成員たる理性を失い、誰もが眠っていた闘争本能をむき出しにして戦っていた。なのにわしだけ逃げるのはおかしいのではないか…一歩…踏み入れて戦うべきか…

 だがその刹那、抜け殻のように立ち尽くしていたY翁の手を、あの2浪のX丸がすっと引いて思い切り駆け出した。突然のことでY翁は驚いた声をおもわず漏らしたが、最高速度に達したジェットコースターのように勢いよく教室から弾き出されると、暗闇に蝕まれていた視界がパッと開けて、Y翁はようやく正気を取り戻して体勢を立て直し、彼ら二人は自分たちがどこに向かうべきかわからないままただ全速力で走って逃げた。廊下という廊下をひたすら駆け抜け、階段を降りては昇り、キャンパスを一周するほど走った。そして、大学講堂の前にたどり着いて芝生の上で大の字に寝転がり、夏のみずみずしい空気と一体化した瞬間、線形代数のあとの休憩時間に遅れていただくはずだったお弁当を、凄惨な光景が広がるあの教室に置き忘れてしまったとY翁は気がつき、言いようのない後悔の念が清々しさの端から滲み出すようにじわじわ押し寄せてくるのだった。